1937年12月に南京を占領した日本軍は、市内から多くの「便衣兵」(と疑われた男性)を連行して虐殺した。軍服を脱ぎ捨てて避難民に紛れた中国兵が「便衣戦」つまりゲリラ戦を行うのではないかと疑ったのだ。
しかし軍服を脱いだら直ちに非戦闘員を装ったゲリラに変身するのか?拘束したいなら捕虜として扱うべきではないのか?そもそも兵士なのか単なる市民なのかどういう根拠で判断したのか?「兵士かもしれない」という決めつけだけで市民を拘束し果ては虐殺するなど言語道断だ。こういう常識をすっ飛ばして「便衣兵は処刑されて当たり前」と言い張るネトウヨって相当ヤバいよ。自分が冤罪逮捕されて実刑判決受けてもいいのかね?
まあともかく南京大虐殺は捕虜だろうが市民だろうが区別しなかった無差別大量虐殺つまりジェノサイドだったことが、様々な証言や日本軍の資料からも明白になる。
【 「便衣兵の処刑」という勘違いについて】
1.「便衣兵の処刑」とは、敗残兵らしき者の虐殺だった
2.敗残兵とゲリラの違い
3.「便衣兵の処刑」とは、実質的に民間人の虐殺だった
南京大虐殺での、いわゆる「便衣兵の処刑」という事件について、俗に言う「否定派」は、「便衣兵戦術は違法だから処刑は当然、だからこれは『虐殺』などではない」と主張している。
しかしこれは無知がもたらした勘違いに過ぎない。南京で、「便衣兵」の処刑が行われた、と「否定派」は主張しているが、彼らは「便衣兵」では無かった!
一般に「便衣兵」という言葉は、「ゲリラ」「民兵」などと同じように使われている。つまり、「正規の兵士ではないが、銃器を所有し、『敵対行動』を行う者」を意味しているものと考える。そして、そのような行動をとる者には、「国際法にて定められた『交戦資格』はなく、従って捕虜となる資格は与えられない」と言う解釈は百も承知である。
しかし日本軍は南京で「正規の兵士ではないが、銃器を所有し、『敵対行動』を行う者」を処刑したのではない。「国際法」に違反した者を処刑したのではない。便衣兵の処刑とは、単なる虐殺行為だった。
1.「便衣兵の処刑」とは、敗残兵らしき者の虐殺だった
日本軍は南京で、「便衣兵」を処刑したのでは、ない。当時南京市内には、日本軍に虐殺される事を恐れるあまり、銃器を捨て軍服を脱ぎ捨てて民間人になりすし市内に紛れ込んだ中国兵が多かった。
そこで日本軍は、南京市内の大勢の壮年男子を、兵士であるか無関係な一般市民であるか確証がないまま殺害したのである。
「便衣兵」がゲリラ活動を行ったから殺害したのではない。銃器を捨て、軍服を脱ぎ捨てて民間人になりすました中国兵が、「便衣化」することを恐れ、その予防策として敗残兵(の疑いをかけられた男性)を虐殺したのである。
自分の銃器をどこかへ捨ててしまっても、南京市内には多くの打ち捨てられた銃器が転がっていたと思われる。軍人なら銃器の扱いには馴れているだろう。それに民間人の姿で銃器を手にして銃撃する者がいたら占領軍にとって非常に厄介だ。だから南京の「治安を恢復」するために有効な策だと考えたのだろう。
しかし、「占領下での南京便衣兵処刑は国際法上妥当・・・・・・」という主張は、全く的はずれである。
南京陥落直後の中国兵は恐慌状態に陥り、銃器を捨て、軍服を脱ぎ捨てた。陥落直後の南京に於ける「便衣兵」とは何者だったのかを示す資料を以下に示す。
日曜日(1937年12月12日)夜、中国兵は安全区内に散らばり、大勢の兵隊が軍服を脱ぎ始めた。民間人の服が盗まれたり、通りがかりの市民に服を所望したりした。また「平服」が見つからない場合には、兵隊は軍服を脱ぎ捨てて下着だけになった。中国兵たちは、日本軍に捕らえられたら問答無用で虐殺されることを恐れたようである。実際、多くの投降兵や捕虜が虐殺されたのだから慌てふためくのも当然だろう。日本軍が捕虜を受け入れる態勢があれば、中国兵の無様な遁走も無く、一般市民の中からの「便衣兵」の選別も無く、そして「便衣兵の処刑」として行なわれた一般市民への虐殺も無かったことだろう。しかし、日本軍は捕虜を食べさせる食料どころか、自分たちの食糧すら持ち合わせが無かったのだから、最初から捕虜受け入れを考えていなかったのである。
軍服と一緒に武器も捨てられたので、通りは小銃・手榴弾・剣・背嚢・上着・軍靴・軍帽などで埋まった。下関門近くで放棄された軍装品はおびただしい量であった。
(F・ティルマン・ダーディン発、1938年1月9付「ニューヨークタイムズ」・・・青木書店「南京事件資料集@アメリカ編」P-436)
1937年12月13日、上海派遣軍第九師団・歩兵第六旅団長・秋山少将より発せられた、「南京城内掃討要領」及び「掃討実施に関する注意」には、
遁走せる敵は、大部分便衣に化せるものと判断せらるるを以て、其の疑いのある者は悉く之を検挙し適宣の位置に監禁すとある。逃亡した中国兵はすべてゲリラ化すると判断せよ、南京市内の男はすべてゲリラだと思え!ということだろう。だから多くの一般市民が便衣兵の疑いをかけられて処刑されたのであろう。
青壮年は凡て敗残兵又は便衣兵と見なし、凡て之を逮捕監禁すべし
(偕行社「南京戦史資料集」P-550、551)
昨日に続き、今日も市内の残敵掃滅にあたり、若い男子のほとんどの、大勢の人数が狩りだされてくる。靴ずれのある者、面タコのあるもの、きわめて姿勢の良い者、目つきの鋭い者などよく検討して残した。昨日の二十一名とともに射殺するこれをみても、「便衣兵の処刑」という屁理屈がまるで嘘であることがよくわかる。「靴ずれ」「面タコ」など、市民の中から、正規兵だったと思われる特徴を持つ男子を捜していたのであるから。
(1937年12月14日、第九師団歩兵第七連隊の一等兵「水谷 壮」の日記・・・・偕行社「南京戦史資料集」P-501)
2.敗残兵とゲリラの違い
「便衣兵」と敗残兵の混同についてさらに述べる。
南京戦に於いての「便衣兵」といえば、「軍服を脱ぎ捨て、一般市民になりすました中国兵」という安易な定義をよく見かけるが、しかしただ軍服を脱いだというだけでは、ゲリラ戦をしていたのか?ゲリラ戦を行う意図があったのか?が判断できない。
ゲリラになるつもりなどなく、ただ一般市民になりすましただけかもしれない。故に、軍服を着用せずにゲリラ戦を行っていた者を「便衣兵」、ただ一般市民になりすましただけの兵士を「敗残兵」あるいは「逃亡兵」と、区別すべきである。
南京陥落後、多くの中国兵士たちは日本軍に捕らえられて殺されることを恐れ、大慌てで軍服を脱ぎ捨て、兵器を捨て、一般市民になりすました。さて彼らはその後、ゲリラとして日本軍を攻撃する意欲があったのだろうか?逆に、彼らの多くはすでに戦意を失っていただけだと思われる資料が多く、それらに目を通せば、陥落後の南京に取り残された中国兵の殆どは、ゲリラ戦に備える為に一般市民に偽装したのではなく、生命の危険を感じて軍服を脱ぎ捨てただけ。兵器を「隠匿」したのではなく、兵器を所持していることで兵士と見なされることを恐れて、ただ投げ捨てただけ。としか思えない。欧米人の遺した記録がそれを示している。
まだ軍服を着ている兵士はできるだけ早くそれを脱ぎ捨てた。街のあちこちで兵士が軍服を投げ捨て、店から盗んだり銃口を突きつけて人から引き剥がしたりした平服を身につけているのを見た。下着だけで歩きまわる者もいた。(中略)
小銃は壊され、山と積まれて燃やされた。街路には遺棄された軍服や武器、弾薬、装備などが散乱した。平時であれば、一般住民――まだ約10万人が市内にいた――はかかる逸品を得んと奪い合うのだが、いまや軍服と銃を持っていれば殺されることを誰もが知っていた。(中略)
日本軍の捜索網がせばめられるにつれて、恐怖のあまりほとんど発狂状態になる兵士もいた。突然、ある兵士が自転車をつかむと、わずか数百ヤードの距離にいた日本軍の方向に向かって狂ったように突進した。道行く人が「危ないぞ」と警告すると、彼は急に向きを変え、反対方向に突っ走った。突如、彼は自転車から飛び降りるなりある市民に体当たりし、最後に見たときには、自分の軍服を投げ捨てながらその男の服を引き剥がそうとするところであった。
ある兵士は騎馬して当てもなく路上を走り、理由もなくただ拳銃を空に向けて放っていた。市内に残った少数の外国人の一人である屈強な一ドイツ人は、なんとかせねばならんと決めた。彼は、兵士を馬から引きずり下ろすと、銃をもぎとり、横っつらを殴った。兵士は呻き声も出さずにこれを受けた。
パニックになった兵士たちは、走行中の私の車に飛び乗り、どこか安全な場所に連れていってくれと哀願した。銃と金を差し出し、見返りとして保護を求める者もいた。怯えた一群の兵士たちが、少数のアメリカ人宣教師とドイツ商人によって設立された安全区国際委員会の周りに群がった。彼らは、構内に翻るドイツ国旗が一種の災難除けのお守りでもなると信じて、入れてくれるよう懇願した。
とうとう、その一部(保護を求める兵士ら)が銃を捨てながら(安全区本部の)門に押し入り、外にいた残りの兵士も銃器を塀を越えて投げ入れだした。拳銃、小銃が中庭に落ち、宣教師によって丁重に拾い集められ、日本軍に差し出させるためにしまい込まれるのだった。
(A・T・スティール発、1938年2月4日「シカゴ・デイリーニュース」・・・青木書店「南京事件資料集@アメリカ編」P-476,477)
月曜日いっぱい、市内の東部および北西地区で戦闘を続ける中国軍部隊があった。しかし、袋のねずみとなった中国兵の大多数は、戦う気力を失っていた。何千という兵隊が、外国の安全区委員会に出頭し、武器を手渡した。委員会はその時、日本軍は捕虜を寛大に扱うだろうと思い、彼らの投降を受け入れる以外になかった。たくさんの中国軍の集団が個々の外国人に身を委ね、子供のように庇護を求めた。
(F・ティルマン・ダーディン発、1938年1月9付「ニューヨークタイムズ」・・・青木書店「南京事件資料集@アメリカ編」P-436,437)
本部に戻ると、入り口にすごい人だかりがしていた。留守の間に中国兵が大勢おしかけていたのだ。揚子江を渡って逃げようとして、逃げ遅れたに違いない。我々に武器を渡したあと、彼らは安全区のどこかに姿を消した。シュペアリング(エドゥアルト・シュペアリング、「上海保険公司」所属のドイツ人、安全区委員会のメンバー)は非常に厳しい堅い表情で正面玄関にたち、モーゼル拳銃を手に、といっても弾は入っていなかったが、武器をきれいに積み上げさせ、ひとつひとつ数えさせていた。あとで日本軍に引き渡さなくてはならない」小銃を破壊したのが兵士であるか市民であるか定かではないが、少なくとも元の持ち主は小銃の再使用について全く考慮していなかったと思われる。
(ジョン・H・D・ラーベ「南京の真実」)
銃器を保持していれば日本軍に必ず殺されるということが南京の一般市民の間でも常識だったようである。
安全区に逃げ込んだ兵士たちは自分の銃器の処分を安全委員会に委ねたというのは、銃器をどこかに隠匿して再起に備えるつもりなど毛頭なかったようだ。
安全区に逃げ込むだけならどこからでも忍び込めばいいのにわざわざ本部まで出向いて武器を委員に手渡していた。日本軍からの追撃から逃げ回るだけでなく、安全委員会の保護を求めていた。よほど日本軍の凶行を恐れていたようだ。
以上から、安全区に逃げ込んだ兵士には全く抗戦する意思を無くしていたと言える。
※ 補足:「便衣兵」による武器の「隠匿」?
ちなみに・・・・銃器を安全区委員会に引き渡さず、かといって路上に放置したわけでもないケースも見受けられる。しかし抗日ゲリラ戦の計画の為に隠し持っていた、とはとても思えない。
今日哀れな愚か者が、大学の養蚕施設にある難民キャンプに避難している男性のことを怒って、こともあろうに日本兵を数人連れてきて、六挺のライフル銃が埋めてある場所を教えてしまった。激しい罵り合いがあって、4人の男性が連行された。うち一人は中国陸軍の大佐だったという忌まわしい罪をきせられた。彼がまだ生きているとは考えられない。
(12月28日、金陵大学病院ロバート・O・ウィルソンの記録・・・南京事件資料集@アメリカ編)
午後2時頃、金銀街6号の金陵大学蚕桑系の建物に憲兵隊将校及び兵士が来ました。彼らは便所の後ろに小銃6、拳銃3−5及びそばで見た人たちによれば機関銃の部分と思われるものを発見しました。人々によれば、これらの銃は敗残兵によって投げ捨てられたもので、面倒を避けるために埋められたものだと言います。戦闘を継続しようという物が銃を地面に埋めたり池に投げ込んだりするだろうか。敗残兵にとっては自分が所持していた銃器は厄介なだけだったようである。
(そして大学職員を含めた数名が敗残兵の疑いによって連行された)
おそらく、中国軍敗残兵が大量の銃を投げ捨てた後、人々が驚いて埋めたり、池に投じたりしたのでしょう。もし憲兵が池を調べたら、大量の武器を発見すると思われます。
(12月30日、金陵大学のリッグス・ベイツ連名での日本大使館への抗議書簡・・・・同上P-146)
※ 補足:本物の「便衣兵」
もちろん陥落直後の南京市内にも本物の「便衣兵」は存在したと思われる。
日本の獣兵は南京市を占領していたが、周辺のデマで日夜不安であり、まるで針の筵に座っているかのようだった。あるとき、中央(国民政府)の便衣隊約五、六人が入城し、中華路付近の地下室内に潜んでいた。ちょうど五人の獣兵が三、四人の人夫をともなって北から南にやって来ていて、我が便衣隊の近くに来た。彼らはすぐさま発砲して獣兵を皆殺しにし、四人の人夫に『中央軍はすでに入城した』と言って、人夫たちを安心させた。このように南京に本物の「便衣兵」が存在したことを中国人が証言している。しかしこの証言の中にある便衣隊は、果たして国民党政府軍によって指揮されたものなのか、南京防衛軍崩壊後に勝手にゲリラ戦を行っていたのか分からない。
(南京事件資料集A中国編 P-227,228 郭岐「陥都血涙録」)
また「紅槍会」という国民党政府軍とは関係ない武装集団や、「遊撃隊」という集団も、日本軍に対してゲリラ戦を行っていたようだが、これらの集団は日本軍に懐柔されたり、また離反したりする、いわば「軍閥」のような存在だったようだ。
・・・しかしその時でも南京の敵軍・傀儡軍に対して遊撃隊の威嚇のないときはなかった。南京の四方で遊撃隊がたびたび出没して、交通を遮断し敵兵を拉致した。敵・傀儡軍は遊撃隊に対して当初『掃討』を行ったものの効果なく、近頃は買収に方法を改め直接編入することもある。また互いに四対六の割合で地方税を分配すると約束することでその歓心を買おうとしているにもかかわらず、成功した例はきわめて少ない。たとえ買収されたとしても後で寝返って抗戦を継続するのが常である。これらは安全区に逃げ込んだ敗残兵とはほとんど無関係と見るのが妥当であろう。
(同上P-181 范式之「敵蹂躙下的南京」)
3.「便衣兵の処刑」とは、実質的に民間人の虐殺だった
敗残兵の「摘出」に当たって中国人の通訳が同行することもあり、また隠れ家に小銃や「青龍刀」が積み上げてあるのを発見したり、よっぽど慌てたのか軍服の上に「支那服」を着込んでいた者を見つけたこともあったという。
明くれば14日今日は国際委員会の設置して居る難民区へ掃討に行くのである。(中略)其の中に或る大きな建物の中に数百名の敗残兵が軍服を脱いで便衣と着替へつつある所を第二小隊の連絡係前原伍長等が見付たそれと言ふので飛び込んでみると何の其の荘々たる敗残兵だ、傍には小銃、拳銃、青龍刀兵器が山程積んであるではないか。軍服の儘の者もあれば、早くも支那服に着替えて居る者もあり、又下に軍服を着て上に支那服を纏って居る者もあればあ何れも時候はずれのものや不釣り合いの物を着て居るので俄存であることが一目で解つた」(偕行社「南京戦史資料集」)しかし敗残兵の「摘出」を行った全ての部隊が中国人の通訳を連れていたり、決定的な証拠を掴むことが出来たわけではない。背嚢のあとや、小銃を扱った為に手に出来るタコや、帽子の日焼けなどの身体的特徴による極めて根拠の薄い状況証拠や、或は「眼光の鋭い者」、「極めて姿勢のいい者」、「逞しい若者」などの主観的な嫌疑だけが頼りだったのだろう。
実質的に行き当たりばったりの虐殺に過ぎなかったであろうことを示す数々の証言、記録がある。
・・・しかしながら、日本軍が南京に入城するや、秩序の回復や混乱の終息どころか、たちまち恐怖政治が開始されることになった。12月13日夜、14日朝には、すでに暴行が行なわれていた。城内の中国兵を「掃討」するため、まず最初に分遣隊が派遣された。市内の通りや建物は隈なく捜索され、兵士であった者および兵士の嫌疑を受けた者はことごとく組織的に銃殺された。正確な数は不明だが、少なくとも2万人がこのようにして殺害されたと思われる。兵士と実際そうでなかった者の識別は、これといってなされなかった。ほんの些細なことから、兵士であったとの嫌疑をかけられた者は、例外なく連行され、銃殺された模様だ。中国政府の残兵はあまねく「掃討」するという日本軍の決定は、断固として変更されることはなかった。
(1938年2月2日アメリカ大使館「エスピー」副領事の報告・・・南京事件資料集@アメリカ編 P-241)
・・・部隊からの命令で、『敵兵とわかったら容赦なく突き殺せ』と命令が出ていた。中国兵は服装を替えているので、目つきの悪い奴とかちょっと足の裏を見て丈夫やったら兵隊で。そういう不確かなことをして引っぱりましたんでな、それにひっかかった者は運が悪いわな(南京戦――閉ざされた記憶を尋ねて――元兵士102人の証言 P-60)
・・・掃討をやる時は中隊長の指揮によってです。注意事項というものはなく『戦争に耐えると思えるような者は全部殺してしまえ』と上部の命令として言われていました。直接この命令を聞いた覚えはないが、中隊長か大隊長が発したのだろうと思ってます。実際、男を敵兵として捕らえ、一人ひとりを調べることなどしませんでした(同上P-83〜84)
午前拾から残敵掃討に出かける。若い奴を三百三十五名捕らえてくる。避難民から敗残兵らしき奴を皆連れてくるのである。全く此の中には家族も居るのであろうに。全く此を連れ出すのに泣くので困る。手にすがる、体にすがる。全く困った。新聞記者が此を記事にせんとして自動車から下りて来るのに日本の大人と想ってから十重二重にまき来る支那人の為、流石の新聞記者もつひに逃げ去る。はしる車にすがり引きずられて行く。・・・・・揚子江付近に此の敗残兵335名を連れて他の兵が射殺にいった
(12月16日、歩兵第七連隊第二中隊・井家又一上等兵の日記・・・偕行社「南京事件資料集」P-476)
目につく殆どの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行してくる。各中隊とも何百名も狩り出して来るが、第一中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十名を引立てて来る。その直ぐ後に続いて、家族であろう母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みにくる。南京在住のジャーナリストも「敗残兵摘出」の曖昧さについて指摘している。朝日新聞記者の今井正剛という特派員の目撃談。
市民と認められる者はすぐ帰して、三十六名を銃殺する。皆必死になって助命を乞うが致し方もない。真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだという。多少の犠牲者は止むを得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃討せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃討は厳しいものである
(1937年12月16日、第九師団歩兵第七連隊の一等兵「水谷 壮」の日記・・・偕行社「南京戦史資料集」P-501)
メインストリートでは人っ子一人見かけなかったのに、何とこのあたりは中国人でいっぱいなのだ。老人や子供ばかりではあるが、どの家の窓からも、不安そうにおびえた瞳が鈴なりになっている。この地区一帯が、難民の集中区になっているのだろう。幾日かぶりでみる民衆の顔である。こうして「敗残兵の摘出」という名目で多くの民間人が虐殺されたのである。
(中略)
いきなり一人の兵士がその男の毛糸の帽子をひったくった。額が白ければ兵隊、と断定するわけだ。「フン、白くないな。まあいいや。こっちへ来い」兵隊はその男の肩をこづいた。
「そりゃ兵隊と違うぜ」「便衣隊がごっそり街へ隠れてるんでね。男は一応連れてゆくんです」
銃剣の兵士たちはその男をつれて、又ドヤドヤと出ていった。
(中略)
(この記者が支局に戻ると)「先生、大変です。来て下さい」
血相を変えたアマ(雇い人)にたたき起こされた。話をきいてみるとこうだった。直ぐ近くの空き地で、日本兵が中国人をたくさん集めて殺しているというのだ。その中に近所の洋服屋の楊(さん)のオヤジとセガレがいる。まごまごしていると二人とも殺されてしまう。二人とも兵隊じゃないのだから早く行って助けてやってくれというのだ。アマの後ろには、楊の女房がアバタの顔を涙だらけにしてオロオロしている。中村正吾特派員と私はあわてふためいて飛び出した。
支局の近くの夕陽の丘だった。空き地を埋めてくろぐろと、四、五百人もの中国人の男たちがしゃがんでいる。
(中略)
そのまわりをいっぱいにとりかこんで、女や子供たちが茫然とながめているのだ。その顔を一つづつのぞき込めば、親や、夫や、兄弟や子供たちが、目の前で殺されていく恐怖と憎悪に満ち満ちていたにちがいない。
(中略)
傍らに立っている軍曹に私は息せき切っていった。
「この中に兵隊じゃない者がいるんだ。助けてください」
硬直した軍曹の顔を私はにらみつけた。
「洋服屋のオヤジとセガレなんだ。僕たちが身柄は証明する」
「どいつだかわかりますか」
「わかる。女房がいるんだ。呼べば出て来る」
返事を待たずにわれわれは楊の女房を前へ押し出した。大声をあげて女房が呼んだ。群衆の中から皺くちゃのオヤジと、二十歳位の青年が飛び出してきた。「この二人だ。これは絶対に敗残兵じゃない。朝日の支局へ出入りする洋服屋です。さあ、お前たち、早く帰れ」
たちまち広場は騒然となった。この先生に頼めば命は助かる、という考えが、虚無と放心から群衆を解き放したのだろう。私たちの外套のすそにすがって、群衆が殺到した。無言で硬直した頬をこわばらせている軍曹をあとにして、私と中村君は空き地を離れた。何度目かの銃声を背中にききながら。
(「特集文芸春秋―――私はそこにいた<目撃者の証言>」1956年12月・・・本多勝一「南京への道」より)
以上、日本茶歴史ボードに投稿したものを再構成した。
参考資料:
岩波新書「南京事件」笠原十九司・著
中公新書「南京事件」秦郁彦・著
現代史出版会「南京大虐殺 : 決定版」洞富雄・著
朝日ノンフィクション「南京への道」本多勝一著
講談社「南京の真実」ジョン・ラーベ著
社会評論社「南京戦――閉ざされた記憶を尋ねて――元兵士102人の証言」松岡環・編著
青木書店「南京事件資料集T:アメリカ編」&「U:中国編」
偕行社「南京戦史資料集」