なお以降は「戦争における『人殺し』の心理学」だけでなく、「『戦争の心理学』 人間における戦闘のメカニズム」(デーヴ・グロスマン、ローレン・W・クリステンセン/著 安原和見/訳 二見書房 2008年3月25日 初版発行)からも引用する。
まずは前回引用した事例と同様の事例を引用する。
■ ベトナム戦争当時、ある米兵がトンネルの中を覗き込んで腹ばいになって懐中電灯で照らしてみると、一人の「ベトコン」が腰を下ろして飯を食っていた。「たがいに見つめ合った時間は永遠とも思えたが、実際はほんの数秒のことだっただろう」。この米兵は傍らにピストルを置いていたが、それに手を触れることはなかった。そしてベトコンは米兵に背を向け、トンネルの奥へゆっくりと進んでいった。米兵はトンネルを出て去っていった。
ところがその20分ほどあと、500m先のトンネルから出てきたベトコンを別の分隊が殺害したという知らせが届いた。
「あの男に間違いないと思った。今日でも、私は固く信じている。サイゴンでビールを飲みながらあいつと私が話し合っていれば、ヘンリー・キッシンジャーが和平会談に出席するより、ずっと早く戦争を終わらせることができただろう」―――マイクル・キャスマン「三角トンネルのネズミ」(人殺しの心理学 P-40〜41)
■ アルダン・デュピクによると、クリミア戦争の際、双方の小さい部隊が偶然出くわしてしまった。「たった10歩」ほどの距離で向かい合ってしまった両部隊だが、なぜか銃を発砲することなく、石を投げながら退却したという。(人殺しの心理学 P-244)
■ 「心理学的に安全な距離からは、仲間と同じく私も同類たる人間を確実に殺していたと思う。しかし、私にとって最もトラウマ的だったのは、ヘリを着陸させたとき、こちらに近づいてくるベトコンに気付いてピストルを抜き・・・しかし引き金を引けなかった瞬間だ」―――コブラ(軍用ヘリ)操縦士によるベトナム戦争の回想(戦争の心理学 P-340)
■ 「ナイト・リッダ―」社のドルーブラウンという記者は、1989年のアメリカ軍によるパナマ侵攻の際はレンジャー隊員だった。彼は「戦争における人殺しの心理学」での「いざとなると引き金を引けない兵士が多い、それがさまざまな研究で立証されている」という指摘に関心を持った。
彼自身がパナマ侵攻の際に、さんざん訓練を積んできたはずの仲間のレンジャー隊員たちが発砲できないことを目撃していたのだ。彼自身も「敵兵を撃とうと思えば撃てたはず」という瞬間が何度もあった。
その後に彼は、D-Day(ノルマンディー上陸作戦)の際に米軍とドイツ軍の小部隊が「ほんの目と鼻の先ですれ違ったのにどちらも発砲しなかった」という逸話を知り、「自分だけじゃなかったんだ」と安堵した。しかし彼は、普通の兵士ならまだしも「よく訓練された精鋭部隊でもそうなる」ことが疑問だった。
「たいていの人間――兵士も含めて――は人を殺すことへの嫌悪感を生まれつき持っているという説を認めれば、それですべて説明がつくものでしょうか」(戦争の心理学 P-352〜353)
このように多くの兵士たちは敵兵を目前にしながら発砲できなかった。あるいは意図的に敵兵から標準を外して発砲していた。この歴史事実を認めなければならない。
そもそも、なぜ「人は人を殺せない」のか。心理学者でもあるグロスマン氏によると、人間にも動物と同じ本能が働いているから、同種間の殺し合いは無意識に避けるという。
たとえばオス同士がメスの奪い合いの喧嘩をしていても、大抵は劣勢の方が大怪我を負わされる前に引き下がる。勝った側もそれ以上追わない。「威嚇と疑似闘争と降伏のパターン」を経て、群れの中の順列やメスと交尾する権利が決定される。同種間で殺し合いをしてもその種を滅亡に近づけるだけだ。強い方は威嚇し、弱い方は腹を見せて降伏の意思を示すなどの「プロセス」を経て、争いは収まる。
これは「ニューヨークの不良グループ」にも、「いわゆる未開の部族および戦士」にも、「世界中のほとんどの文化にこの原則が当てはまる」(人殺しの心理学 P-48)。たしかにヤンキーとかヤクザとか上下関係が厳しいもんな?
これは人間と犬との関係にも当てはまるという。グロスマン氏の経験によると、犬が吠えかかってきても、決して背中を向けて逃げ出してはいけない。向かい合っていなければならない。犬にとって相手が自分に向き合っている間は、その相手は同種というか同格の生物と見なしている。
しかし背中を見せた途端、その相手が獲物に見えてしまうのだ。追いかけて仕留めなければならなくなる。つまり相手が自分とは違う生物だと見なした途端、敵として、獲物として認識するのだ。グロスマン氏によるとこれは人間にも共通していることであり、現代の軍隊もこういう兵士の心理を巧みに利用しているという。
続いて、人間にはこのような(殺人行為を嫌う)心理があるにも関わらず、時と場合によっては抵抗感なく銃口を開く理由について、グロスマン氏の論考を引用する。順番を無視してバラバラに引用するのでご容赦を。
■ (アイヒマンのような普通の男がなぜホロコーストに加担したのか解き明かそうとしたという)有名な「ミルグラムの実験」を例にとり、人間は【権威者の要求】を受ければ、対象者に一切の悪意がなくても、残酷な行為だろうと躊躇わず実行してしまう心理があることを指摘する(人殺しの心理学 P-241〜242)。ゆえに殺人行為を恐れる兵士たちも、その場で指揮官という「権威者」に命令されれば、忠実に従うだろう。
アメリカ軍准将S.L.A.マーシャルによると、第二次世界大戦における兵士たちは、近くにいる指揮官から激励されているときはほとんど発砲していたが、指揮官がその場を離れた際の発砲率は、彼が発表した通りになった(人殺しの心理学 P-245)。
だから指揮官からその場で命令を受ければ、非人道的行為に手を染めてしまう。ベトナム戦争におけるアメリカ軍の残虐行為についてはミライ村(ソンミ村)の大虐殺が特に有名である。このブログでもかつて触れたが、あれが戦争の本質だ。詰まるところ皆殺し作戦に到ってしまう。
この大虐殺を指揮したのはウィリアム・カリー中尉という、まあ凡庸な人物だったようだが、ミライ村の現場で彼は部下に「どうすればいいかわかってるな」とだけ言って一時その場から立ち去った。
部下が村民を殺していないと知ると「なぜ殺していないんだ」と尋ね、部下が「殺せと言われたとは思わなかったので」と答えると「殺せとは言ってない。生かしておくなと言ったんだ」と言い、自ら発砲を始めた。
この段階まで来てやっと部隊の兵士たちは、「殺人への抵抗感がきわめて大きい」はずの行為に手を染めてしまった。(人殺しの心理学 P-246)
■ 兵士がたった一人でいるときには、敵兵を殺害するのに抵抗感があるが、これが集団だと薄れるという。【集団免責】の心理である。
たとえば、「戦争の心理学」の共著者であるローレン・W・クリステンセンがポートランド警察署に勤務していたとき、何10件ものネオナチによる暴力事件を捜査したが、単独での犯罪は1件も無かった。「あいつらは肝の小さい臆病者なんだよ」「ひとりじゃなんにもできないんだ」(戦争の心理学 P-348)
集団での暴力なら、殺したのは俺だ・・・という当事者意識も薄まり、また攻撃性も強まり、一人きりなら考えられないような残虐行為に及ぶこともあるという(人殺しの心理学 P-255〜257)。たしかに、ヘイトクライムはたいてい集団で行われるし・・なにかそういう、集団でやっちまえば個人は罪を問われないみたいな心理があるよね。
■ それこそナポレオンの時代から、敵軍に向かって確実に攻撃を行う方法があった。【組扱いの兵器】、すなわち大砲のような指揮官の命令の下に数人で操作するような兵器だ。上述のように集団の行為なら当事者意識は薄れる。しかも大抵は敵兵一人一人の姿は見えない場所から発射されるだろう。殺人への抵抗感はほとんど感じないのではないか。
殺人行為の中でもっとも罪悪感があるのが素手で首を絞めて殺すこと、次いでナイフによる刺殺、銃殺はその次だというが・・つまり被害者との距離が遠ければ遠いほど抵抗感は薄れる。だから近代の兵士たちは爆撃やミサイル兵器を操作することによって、大虐殺に手を染めてしまうのだ。
以上を踏まえて、兵士の戦場での行動についてのグロスマン氏の指摘を引用する。
「すでに数々の研究で結論づけられているように、戦闘中の人間はたいていイデオロギーや憎しみや恐怖によって戦うのではない。また以下のような指摘もある。(3人の研究と言いながら「クランス」という人名が二つ出てくる。First Nameは違うのか?それとも著者か訳者の記述ミスか?分からないがそのまま引用する)
そうではなくて、
(1) 戦友への気遣い
(2) 指揮官への敬意
(3) その両者に自分がどう思われているかという不安
(4) 集団の成功に貢献したいという欲求
という集団の圧力と心理によって戦うのである」
(人殺しの心理学 P-167)
「1973年の研究において、クランス、カプラン、およびクランスの三人は兵士が発砲する理由を調査している。戦闘経験の無い人は、『撃たないと撃たれるから』というのは決定的な理由だと考えたが、戦闘経験者が最大の理由としてあげたのは『撃てと命令されるから』だった」(人殺しの心理学 P-244)
ということは兵士たちにとって「大東亜共栄圏」だの「共産主義との戦い」だの「資本主義との戦い」だの「民族自決」だの「イラクに自由をもたらす」といったお題目は関係ないのか?そういうお題目に燃える兵士は俺たちのようなネット上のウヨ&サヨの脳内にしか存在しないのか?ただ信頼できる上官や気心を許せる戦友がいれば、さらに共同の行為であれば迷わないというだけか。
俺たちだっていくら反戦とか気取っていても戦場につれていかれて、周りの人間が真剣に銃撃していたら自分も撃つだろう?兵士であろうと俺たち勤め人であろうと同じ人間だから同じ心理で動くに決まっている。
ただし、以上とは別の心理も、殺害を容易にする方向に働くようだ。
■ ある研究によると、何らかの組織に誘拐された者は、頭にフードを被せられていると殺される危険性が高くなる。被っていない方が殺される危険性は低くなる。「こちらと似ていれば似ているほど、攻撃者は犠牲者と同一化しやすい」。動物が同士討ちしないのと同じ心理だろうな。
だから【文化的・社会的な距離感】があれば・・・肌の色や顔立ちや言語、宗教が異なれば、この心理は逆に働く。東洋人をグック、日本人をニップなどと蔑称で呼び、人間だと見なさなければ殺害は容易になるだろう。さらに「ボディカウント」的思考回路・・・つまり敵を人間の人数ではなく単に「数」だと認識する。あるベトナム帰還兵はこういう心理によって、北ベトナム兵士やベトコンを「蟻を踏みつぶす」ように殺せたという。(人殺しの心理学 P-268〜269)
・・・中国に侵略した日本軍による残虐行為については、日本兵の中国人への差別感情も影響しているのではないかと思う。また、イスラエル軍によるパレスチナ侵攻の後、壁に「R.I.P. Arab」や「Arab 1948 – 20**」などの、イスラエル兵のものと見られるという落書きがあったそうだが、そのようなイスラエル兵のパレスチナ人に対する激しい差別感情が、残虐行為に拍車をかけているのではないかと思う。(それにしても1948年はイスラエル建国の年だ。「Arab 1948 – 」というのは、アラブ諸国がイスラエルを侵略しているという、イスラエルのプロパガンダそのままではないか!)
もちろん現代では各国とも、差別感情を煽って戦意を高めるような指導は行っていないだろう(たぶん)。しかしこのような、敵兵を人間だと思わなくなるように仕向ける訓練が行われているようだ。
■ 第二次世界大戦後のアメリカ軍は、兵士の発砲率が低いという現状を打開するために様々な訓練を行った。
かつての兵士の射撃訓練では、丸い標的が使われていた。しかし現代の射撃訓練は、人間の形をした的に向かって行われる。そうして訓練を重ねれば、戦場で敵兵に遭遇すれば反射的に狙撃するようになる。心理学者でもあるグロスマン氏はこれを【条件付け技術の応用】と呼ぶ。パブロフの犬がベルの音を聞けばよだれを垂らすように、兵士にも条件反射を植え付ける。
野外の訓練場では、ときどき人の形をした的が飛び出して引っ込む。兵士は即座に狙いをつけて撃たなければならない。命中すれば的はまるで人間のようにバタンと倒れる。丸い的に穴を開けるより達成感があるだろう。
的を外せば悪ければ再教育が待っている。基礎訓練キャンプを卒業できないかもしれない。成績が優秀なら、表彰や外出許可などが与えられる。グロスマン氏によるとこれは一種の「トークン・エコノミー」・・・子どもが言いつけを守ればご褒美にお菓子を与えるなどの「療法」と同じだという。(「人殺しの心理学」P-393〜394)
イスラエル軍・対テロリスト狙撃兵コースの訓練士は、「標的はできるだけ人間らしくした」と語る。「胸に大きな白い番号札をつけて走り回っているシリア兵などいないからだ」。さらにはキャベツの中にケチャップを詰めてから人型の標的に貼り付け、「スコープを覗くときは、頭が吹っ飛ぶのをよく見るんだ」と言い聞かせた(人殺しの心理学 P-395〜396)。こうした訓練を重ねれば、実際に戦場で敵の頭部を撃ち抜いて血と脳漿が飛び散るのを見ても動揺しないだろうな?
こうした訓練を受けてフォークランド紛争に送り込まれたあるイギリス軍兵士は、後に「敵は第二型(人型)標的としか思えなかった」と語ったという。「アメリカの兵士でもこれは同じことだ。いま撃っているのはE型標的(人型で緑褐色の的)であって人間ではない。そう自分に言い聞かせることができるのである」(人殺しの心理学 P-397)
こうした訓練を経て、殺人行為に抵抗感があるはずの普通の若者たちが、敵兵を見つければ反射的に狙撃する殺人マシンへと育て上げられるのだ。
(続く)