まず、全く不要でも不急でもない出来事について書く。 2021年10月11日は夜勤明け、父親から着信があるのに気付いた。群馬県長野原町の病院に入院していた母親が亡くなったという連絡だった。享年八十。ここ数年寝たきりの状態で回復の見込みはなく、もう長くは無いと覚悟していたのだが・・・。会社に報告し、翌朝鉄道で現地に向かった。
無限列車ならぬ特急草津1号に乗り、牛鍋弁当ならぬ牛しぐれ煮弁当と塩麹焼き鯖弁当で腹ごしらえ。
JR吾妻線万座鹿沢口駅からタクシーで葬儀場へ。親族のみの短い「家族葬」のあと、草津の火葬場に移動。骨はほとんどボロボロだったが下顎だけ残っていた。そのあと会食は無し、解散。俺と同居人のみ高崎駅の駅ビルで酒を飲んだ。「お母さん歯は丈夫だったのね。アンタは多分何も残らないだろうね。『ご主人様、歯が悪かったんですね』と言われるの恥ずかしいな」「焼き方はレアにしてくれw」などと下らないことを喋っていたが、突然真顔になって余計なことを言い出した。「お母さんが亡くなったのに随分平然としてられるね。冷たい人ね」。悼む気持ちが足りないと言われればそうかもしれないが、餓鬼の頃から精神的に母親に依存していたのに、ついに母親が存在しない世界に投げ出されたんだぜ。じわじわと恐怖がやってくるだろうな。と思ったらそうでもなかった。だんだん母親に依存する気持ちがなくなったからな。だいぶ俺と考え方の違う人になっちまったなあ、と感じ始めたのがその原因だろう。それにしても俺って自分の事しか考えてないなあ。
貧しい農村に育ち、就職のため上京し、子育てとパート労働に追われ(俺の記憶では常になにかしらパートをしていた)、バカ息子に手を焼き、やっとバカ息子と娘が自立したと思ったら今度は孫の世話に追われたり・・・苦労の連続の一生だったな。しかし一方で彼女は、若い頃はテニスなどのスポーツ、老後は絵画や陶芸など様々な趣味を楽しんでいた(どれもあまり長続きしなかったようだが)。充実した人生だったのかもしれない。
ちなみに(これもツイッターに書いた話だが)彼女の父は台湾銀行に勤務していて、終戦までは裕福な暮らしだったらしい(彼女自身は幼かったのでほとんど記憶にないそうだが)。もちろん引き揚げ後は貧しい生活が待っていた。ある日、汚くてひげボウボウのオジサンが家にやってきて、「アタシたちは滅多に食べられない目玉焼きを一人で食べている。くやしい」と思ったそうだが、それが(終戦間際に赤紙が来たせいで)引き揚げの遅れた彼女の父だったとか。まあ戦後はみんな大変だったけどね。父親はだいぶ古風な男だったらしく、彼女が高校卒業後の上京を決意したときも反対し、家出同然に飛び出したという。そして彼女は二度と父親の顔を見ることはなかった。上京してから初めての帰省は父親の葬儀だった。もちろん俺が生まれるより前だ。
彼女はとくにバカ息子には悩まされただろう。進路が定まらないどころか卒業すら危なくて、やっと職を得たと思ったら転職を繰り返し・・・幼いころ虚弱児だったのはともかく、とんでもない馬鹿だったからな。親や教師に何度呼ばれても全然リアクションがない。聴覚は正常だし知能もまあ低めだが義務教育を受けられる程度はあったのだが。身だしなみがなってない。汚らしい。ボタンをとめるほどの器用さもない。平気で遅刻を繰り返す。何度注意されても同じことをやらかす。分かっていてもやってしまう。勉強しなきゃいけないと分かっているのにやらない。その当時は無かった言葉だけど、「発達障害」だったと思うよ俺は。今でも治ってないと思う(治るわけない)。小学校低学年のときの担任教師は匙を投げ、母親に「特殊学級に行きますか?」と勧めたらしい。そのとき母親は俺と身投げしたい気分だったとか。(ところでこの教師、生徒から人気あったが俺のような劣等児には冷たかった。悪いのは俺じゃないのにいじめっこと結託して俺を責めたり。いじめっこって教師のウケは良かったりするじゃん。ああいう教師がいるからいじめが無くならないんだよ)
恐らく俺が彼女の人生の大事な時間をごっそりそぎ落とし、無駄な心労を与えて心身にダメージを与えたのではないかと思うと反省しきりである。俺のような劣等児を成人するまで育て上げてくれたことに感謝したい。「親孝行したいときに親はない」というが、あと10年20年したら親孝行したくなるかもな。俺自身が死んでるかもな。
それにしても、読書も好きで、新聞は隅から隅まで目を通し、テレビのニュースにはいちいちコメントしていたが・・・若い頃は保守的だが穏健な印象があったが、加齢とともに言うことがかなり反動的というか過激になっていったな。そこらのネトウヨのような。「新潮」など読んで影響されたのかも。そういう認識を改めさせようとしても話を聞かないし(ボケが入って人の話を理解できなかったのかも)、と思えばまた同じことを言い出す。そういう発言が世間でヘイトを増長させるんだ。あんたたちの発言が増幅されて恐ろしいヘイトクライムが行われるんだ。と説教してやりたかったな。何だかんだで彼女を尊敬する気持ちもあったのだが冷めていった。こんな人になっちゃったのか、って。だから上の方に書いたように依存したい気持ちが薄れていったんだろうな。
まあ人間って老いると攻撃的になってきたり、幻聴幻視ってゆうか被害妄想が出てきたりするみたいね。そういう人を知ってるよ。盗聴されてるとか騒いでみたり。あなたたちのような爺さん婆さんを盗聴してどんな利益があるんだよ?と説教してやっても全然通じない。だから日本がアジアを独立させてやったとか虐殺とか強姦とかしてないとか韓国を豊かにしたとかウソですよ、とか説教してやっても通じるわけがないよな。
だいたい、そういうのって宗教みたいなもんじゃん。カルト宗教の信者に「教祖が空中浮遊できるなんてウソに決まってんじゃん」って言っても聞き入れるわけないよな。知性が足りないとかボケてるとかそういう問題じゃないよな。ウヨ思想に限らず。年とって頭がかたくなってボケも入ってきてんのに、そういうカルトにはまっちゃったんだから救いようがないよ。
それに時代の移り変わりと共に政治的志向が正反対になる、という人は珍しくないよね。テレビで政治家や有名人が「戦争反対」と言えばそう思うし、逆な事言ってればそう思うんだ。そういうありふれた大衆だったんだよ。
悪いけどあなたのバカ息子は、あなたともあなたの夫とも違う。バカはバカだけど、バカな頭で考えてみても、おかしいことはおかしい。とはっきり言える人間に産んでくれてありがとう。
「あなたがなんでそんなバカに生まれたのか分かりますか?バカはバカなりにお国に尽くすためです。バカに生まれた者の責務です。バカサヨやめなさい」
「いや俺はウヨにも体制内左派にもならん!俺は、俺の責務を全うする!母上、俺こそ、あなたとは違って、バカはバカだけどおかしいことはおかしいと言える人間に産んでくれて光栄です」???
2021年10月20日、大菩薩峠に登った。大菩薩峠と言えば、麓にある「福ちゃん荘」で赤軍派が大勢弾圧された事件が有名だよね。
首都高に乗り、毎度の如く5号線からC2に入ったが、けっこう混んでたね。もっと早く出発すればよかった。駐車場に車を停めて「福ちゃん荘」まで歩いたけどけっこう登ったな。車道もあったけど一般車両は遠慮したほうがいいと思う。
「福ちゃん荘」に着いたのが11時くらい、まだ昼飯には早いってゆうかこれから登山だから煮込みおでんとか外のベンチで食った。ちゃんと食事しないと店の中には入れない。入ったって、俺のような観光サヨクが喜ぶような展示とか、たぶん無いと思うよ。
大菩薩峠までそんな大変じゃなかった。
眺望は素晴らしい
大菩薩嶺は眺望なし
富士山が素晴らしい
そして鉱泉旅館に一泊。翌日は山梨県内をあちこちドライブ。二日目の運転は同行者に任せた。ワイン工場見学とか、桔梗信玄餅工場とか。鬼滅の刃パッケージ欲しかったのに同行者がノーマルパッケージ買っちゃった。昼飯はほうとう鍋食ったけど、どうやら蕎麦が主力の店だったみたい、次は蕎麦食べますよ。行くかどうか分かんないし場所も憶えてないけど。
そして上九一色村(だった場所)に向かった。
慰霊碑に合掌。裏側にも何も記されていない。
富士山はどこから見ても素晴らしい
帰りは中央道が事故渋滞、当然首都高もノロノロ、疲れた。
2021年11月7日、全国労働者総決起集会が行われた。
コンビニユニオンの皆さん
デモ無事貫徹お疲れ様 pic.twitter.com/cdOgxhUrpE
— usachanたかぽん (@usachanko) November 7, 2021
今日のデモは、コロナでビビってるのかもしんないけど、妨害のウヨ坊もポリ公も少なかったです。デモコールに「字余りだろ!」と指摘するウヨ坊もいて、真摯に受け止めます。
— usachanたかぽん (@usachanko) November 7, 2021
団結してガンバロー!
デモのあと打ち上げ、このとき居酒屋は通常営業だった。
2019年11月13日、顔振峠に登った。要するに「西武鉄道で行くハイキングコース」を歩いたわけさ。ちょっと道を間違えたが・・
西武秩父線吾野駅からスタートして顔振峠に到着。スタートがかなり遅かったので先行き不安。お店が三軒ほどあったな。奥武蔵(埼玉県西部、秩父より手前)の低い山って、登山道を登っていくと舗装された車道に出ちゃうんだよ。車で行けるんだよ。
振り返ると、こじんまりとしたお堂が。
しばらく舗装道路を歩き、再び登山道に入って越上山を目指した。
越上山の山頂手前にこんな難所があるので注意!。ちなみに山頂は林になっていて眺望全くなし。
「ユガテ」に寄ったが、こんな季節なので寂しい景色。
ところが日が落ちたら真っ暗になっちゃって、遭難するとこだった。頭につけるライト持ってて良かった。地元の人に、イノシンに突っつかれるよって言われたw pic.twitter.com/3psGi9U7V9
— usachanたかぽん (@usachanko) November 13, 2021
そのあと南浦和の狭い居酒屋で打ち上げ。
2021年11月14日、渋谷闘争フィールドワークに参加した。1971年11月14日の渋谷闘争で一人の警察官が死亡したが、事件と全く関係の無い星野文昭さんや大坂正明さん、奥深山幸男さんらが疑われ、奥深山さんは保釈されるも免訴が認められないまま死去、星野さんは徳島刑務所で獄中死、大坂さんは東京拘置所に拘束され裁判も始まっていない。
代々木八幡駅に集合し、事件のあった現場に向かって解説を受けながら歩いた。へんなオジサンたちもついてくるよ。デモじゃないのに。
1971年11月14日渋谷闘争50周年のフィールドワークに参加した。
— usachanたかぽん (@usachanko) November 14, 2021
写真1枚目はデモ隊が阻止線を突破した神山交番跡地(仕事だかプライベートだか知らんが撮影やってたw)、
2枚目は中村巡査がデモ隊に捕捉された神山交差点。 pic.twitter.com/O83b05yTrY
渋谷闘争の当日、星野さんがこの交差点を通過したとき、NHK方面から車のフロントガラスが陽ざしを反射して光るのが目に映ったという。残念ながら時間が遅かったので同じ現象を確認できなかったが。
中村巡査の慰霊碑。星野さん第二次再審請求が始まったころに設置されたってさ。やな感じ。
— usachanたかぽん (@usachanko) November 14, 2021
彼の所属の新潟県警では英霊扱いだってさ。 pic.twitter.com/grpjOJ5IZ4
ちなみに新潟県警の部隊は富沢さんって人が隊長だったけどさっさと逃げ出して、中村巡査だけが最後までガス弾を撃ってたんだってさ。律儀というか・・下っ端なのに融通が利かない奴っているよね。
— usachanたかぽん (@usachanko) November 14, 2021
2021年11月25日、映画「君が死んだあとで」のアンコール上映を観た。「三里塚に生きる」「三里塚のイカロス」などの代島治彦監督の映画だから早く観なきゃと思ってたのに、ギリギリで観れてよかった。
1967年10月7日、佐藤栄作の南ベトナム訪問を阻止するための第一次羽田闘争は、数千人の学生と機動隊が激突した激しい闘いだった。逃げていく機動隊の首を長いゲバ棒で叩くと面白いように倒れる。倒れた機動隊を学生たちが首都高の高架から落そうとすると、女子学生が泣きながら「やめて下さい!そんなことをしたらアメリカ帝国主義と同じです!」と制止したという。どこで読んだのか忘れたが・・・。
この闘いの中で、中核派に加わっていた学生の山ア博昭さんが亡くなった。機動隊に撲殺されたのか、学生が奪った警察車両に轢かれたのか、よく分からんが。追悼集会では党派を超えて多くの活動家が山崎さんの死を悼んだ。ちなみに三里塚空港反対同盟の萩原進さんは、同年11月12日の第二次羽田闘争に参加し、機動隊に殴られた学生が血を流して倒れているのを見て、全学連は本気で闘っているのだと実感し、その全学連を敵視する日本共産党の本質を悟ったという(「農地収奪を阻む」P-42)。
しかし山崎さんが亡くなった後に、いったい何人亡くなったことだろうか。内ゲバが激化し、連合赤軍はリンチ殺人を行い、学生運動は衰退し、俺のようなゲバルトとは無縁の世代も、口を開けばあの団体おかしい、あいつは信用できないなど批判ばかり、さぞかし山崎さんも草葉の陰で嘆いておられることだろう?
この映画でかつてを振り返る方々の中で、学生時代は中核派だった方も多い。多方面で活躍されているようだ。様々な事情で組織を離れたようだが。少しだけネタバレさせてもらうが、「子ども脱被ばく裁判」共同代表の水戸喜世子さんの夫は、救援連絡センターを設立した一人である物理学者の水戸巌さん。1986年に二人のお子さんと雪山登山中に共に遭難して亡くなった。喜世子さんによると、巌さんはしばしば警察に監視されていたが、救援連絡センターを運営する上でも苦労が絶えなかったという。ある党派から「救援連絡センターの会報に**派を殲滅せよ、と載せろ」と要求されるのである。
対立する党派を憎むのは分かるが(憎むだけじゃなかったが)、そういうことは自分の機関紙に散々書いてるだろ。救援連絡センターに同じことを求めるのは違うだろ?殲滅するんじゃなくて救援するのが目的なんだから。今でも実際、こういうノリはあるんだよね。運営方針を巡ってもめることもあるようだし。
そりゃ、日共は当然のこと、**派もウヨクもお抱え弁護士がいるだろう。現実的に救援連絡センターに相談が入ることはないだろう。だけど救援活動というのは、党派とは別の次元にあるんじゃないの。それを踏まえとかないと。
ともかく、とても印象に残る映画だった。DVDが出るのかどうか分からんけど、機会があれば是非とも観て欲しいな。
021年11月27日、「狼をさがして」の上映会が行われたので行ってきた。3月に渋谷で観たときは寝ちゃったからちゃんと観ておこうと思って。また寝ちゃったけど。
そのあとトークのテーマは、「自主上映」について。これがまた眠い。なんかアジプロ映画がどうのこうのとかいう話をしてたがほとんど寝てた。ところが質疑応答の時間で、この映画を「自主上映だったとしても上映中の不手際はよくない」「この映画にがっかりした」と正直に言い放った人がいて、さらに某映画監督が、「プロパガンダ映画を否定する発言があったが、偏見ではないか。どういうことか」「なぜ自主上映の話ばかりで、この映画の話をしないのか!」と質問した。たしかに俺も東アジア反日武装戦線の話を聞きたかったな。
そしたら会場はざわついてきて、登壇者が「プロパガンダ映画とは、アジプロ映画という私の発言についてでしょうか?私はプロパガンダ自体は否定しません、しかし・・・」と反論を始めたらまた会場のざわめきが大きくなった。
別の登壇者が「私たちは自主上映について語るように、と呼ばれました!」と怒気を含んで発言、これについては主催者も、「そういう主旨でお招きしましたので、、、」と釘を刺した。
また「がっかりした」という発言については関係者から、「そんなこと言われて心外です。この映画はいい映画です」と怒気を含んで発言・・・。なんか映画より面白かった。やっぱサヨクの集会はこうじゃなくちゃね。詳しい内容は「東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議」の会報「支援連ニュース 424号」を見て下さいね。
俺としては・・・自主上映であろうと万全を尽くすのは当たり前だが素人だからミスもあるだろう、ある程度は大目にみてほしい。映画への感じ方については人それぞれだろう。こういう映画が作られたこと自体を評価するべきではないか?期待を裏切ってしまったのは、他人事ながらやっぱそうだろうねえと思うが(笑)、今後の課題として受け止めるべき。プロパガンダ映画バンザイである。インテリな人たちの眠くなるような話は聞きたくない(笑)
2021年11月28日、この日も全然不要じゃないし不急でもない用事。都内のお寺で母親の四十九日の法要と納骨式。親戚も来た。「あら〇〇君、太ったわね。髪の毛真っ白になっちゃったわね」って言われた。そりゃあ、何十年ぶりかで会ったんですから!もういい歳ですよ!あなたたちもね!ところでこの二人の若者は、私の娘と息子ではありません。きょうお墓に入る人の娘の子どもたちです。・・・なんで妹は二人も子どもいるのに俺にはいないんだよー。くやしいねえ。悲しいねえ。老後が寂しいねえ。
なんだかハイテクお寺だな?最近のお坊さんは坊主じゃないのね、わりと髪の毛長かったな。読経が、なんか歌ってるみたい。声がすっごく朗々と響く。浄土真宗のお経ってこうなのか?納骨堂にはちゃんと母親の名前が刻んであった。その隣に父親の名前もあるけど色が違う。墓に入るとき同じ色にするんだろうな。
そのあとタクシーに分乗して移動して、会食(だから星野文昭さんの集会に行けなかった)。ところが食べているとき以外はマスク着用、お酒なしだった。一部から不満の声も。父親とか俺とか同居人から。しかたないから俺と同居人でアメ横で飲んだ。
2021年12月30日は夜勤明け、久しぶりにコミケ行ってきた。一般入場チケット当たっちゃったから行くしかないじゃん。ワクチン2回接種証明書持参してさ。ビッグサイトの裏手の駐車場で長々と待機させられて、そんでやっと入れたと思ったら、以前より空いてるな。会場が混雑しないようにチケットの枚数を調整したんだろうね。まどマギ&マギレコのサークルをグルグル回って、数冊買って、あと鬼滅のあたりも行ってみたけどちょっと空いてたな。南ホールの企業ブースも以前よりは空いてたな。コスプレエリアも以前のような異常な混み方じゃなかった。まあ適正な集客人数かもな(鬼滅のコスプレは少なかった)。もたもたしてたらオフィシャル紙袋売り切れちゃったし、あんまりお土産買わなかったけど、久しぶりのコミケ楽しかったよ。
というわけで、このシリーズ(?)またやるかどうか気分次第、なんというか半年や1年経過してからだと、当時のことを冷静に振り返れる、という利点もあるかもな?
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