部分的に「ユダヤ人の歴史 下巻」(ポール・ジョンソン/著 徳間書店 2000年1月20日 第2刷)、及びウィキペディアからの引用。
かつてヨーロッパではユダヤ人への差別意識が強く、ロシアや東欧では「ポグロム」が多発していた。関東大震災における朝鮮人大虐殺のようなおぞましいヘイトクライムだ。
1894年フランスにて、ユダヤ人のアルフレド・ドレフュス大尉がスパイ容疑というあらぬ罪を着せられ逮捕された「ドレフュス事件」が発生。ドレフュスは有罪判決を受けた後、「公式に免職する儀式」を受けた。陸軍士官学校の中庭で、将軍に罵倒されて勲章を奪われ、剣をへし折られ、中庭を一周させられた(ウィキペディアの挿絵)。外では群衆が「ドレフュスに死を!ユダヤ人に死を!」と叫んでいた。
ジャーナリストとしてこの儀式に出席を許されたハンガリー系ユダヤ人のテオドール・ヘルツルは、このように西欧でもユダヤ人への偏見が強いことに衝撃を受けた。(以上、ユダヤ人の歴史 下巻)(※ちなみにヘルツルはシオニズム運動を開始した後にドレフュス事件の不当性を訴えはじめた、という説もあり。ウィキペディア記事「ヘルツル」の英語版)。
■ ヘルツルはヨーロッパ社会の生活習慣を受け入れている「同化」ユダヤ人だったが、ユダヤ人がこのままヨーロッパで生きていくのは不可能だと思い至る。ユダヤ人がある国の中で「同化」しようとも、その国の国民は反ユダヤ主義者になる、だからユダヤ人は自分の国を作るしかない、というのだ。こうしてシオニズム運動の中心的人物となり、ユダヤ人国家創設を目指した。
そして1896年に、ユダヤ人は独立国家を建設すべきと説く「ユダヤ人国家」を出版し、1897年に第1回シオニスト会議を開催し議長を務めた。「近代シオニズムの父」と言われる、立派な髭をたくわえたこの御仁、かつてはイスラエル紙幣の肖像画にもなっていたそうな。今でもイスラエルではヘルツルの誕生日は休日なんだとさ。日本で言えば天皇と渋沢栄一が合体したようなポジションかな?(全然違うよね)
もっともヘルツルの構想は、非難と嘲笑を浴びた。彼が大学で学んでいたウイーンでは「俺たちユダヤ人は2千年もユダヤ国家を待ち続けたが、いまその時が来たというのかい?」というジョークが見られたという。「1999年になったのに恐怖の大王がやってこないぞw」的な、決して実現しないことを説く者への皮肉だな。
多くのユダヤ教徒も非難し、あるいは無視した。ヨーロッパでのユダヤ人の「同化」は不可能だとするヘルツルの主張は、それまでのユダヤ人の努力を否定するものだった。
ロスチャイルド一族の富豪もヘルツルとの面会を拒絶していた。パレスチナの小さなユダヤ人居住区を援助していた銀行家のエドモンド・ド・ロスチャイルドも、ヘルツルの雄大な計画は全く現実的ではない、「すでに築かれた確固たる発展をも危険に晒すだろう」、「自分の胃より大きな眼を持つ物はいない」と語った。
同じくユダヤ人の大富豪であり、資金力によってアルゼンチンやアメリカへのユダヤ人移住を進めていたモーリス・ド・ヒルシュもヘルツルと面会したが、「無知なテロリスト」と一蹴したという。
移住を奨励するのと、その民族?のための独立国家を作るというのは、全然性質が違うよな。戦後の日本だって中南米への移住を奨励したじゃねえか。まあ、ヨーロッパで揺るぎない?地位を築いている富豪が、危険な計画に反対するのは当然だろうが。
かつてヘルツルが勤めていた新聞社も「敵対的」だったという。その新聞社の有力者は「怒りを込めて警告した」。「重大な倫理的責任を負ってこの危険な賭けを始める権利は誰にもない。ユダヤ人国家を手に入れる前にわたしたちが現在所属している国家を失うことになるだろう」(以上、ユダヤ人の歴史 下巻)
■ もっともヘルツルによるユダヤ人独立国家の構想は、パレスチナだけを狙っていたわけではなかった。
1902年7月に、ユダヤ系大財閥ロスチャイルド家の第3代当主であり大英帝国の貴族院議員で男爵だったナサニエル・マイヤー・ロスチャイルドとの面会にこぎ着けた際、ヘルツルはロスチャイルドに「イギリス政府に植民地の特許状を請求したいのです」と述べた。
「ウガンダを取るがよい」と言うロスチャイルドに対し、多聞を憚って「シナイ半島、エジプト領パレスチナ、キプロス」などと紙に記したという。かつてヘルツルに門前払いを食わせ続けていた彼だったが、このときはヘルツルを気に入ったらしい。
要するにヘルツルはユダヤ人国家を作れるならパレスチナじゃなくてもどこでもよかったんだな。それにしてもね、植民地というのは元からそこに住んでいる人々がいるだろ。不当に支配し搾取してるわけだろ。それなのに、欲しけりゃくれてやる、という態度の政治家も呆れたものだが、同じ感覚で物を言うシオニストの運動家にも理解がついていけない。欧米列強が世界を支配する時代だったが。
植民地大臣のジョゼフ・チェンバレン(首相となったネヴィル・チェンバレンの父)にはキプロス島を提案し、もちろん断られたが「イスラム教徒は退去するでしょうし、ギリシャ人は大喜びで良い値で土地を売り払い、アテネかクレタに移住するでしょう」と言って粘ったという。なんでイスラム教徒やギリシャ人が退去するって分かるんだ?どういう感覚してるんだか。(もっともチェンバレンはヘルツルの活動に理解を示していたが、ヘルツルらユダヤ人とは異なる発想があった。別記予定)
さらにヘルツルはイギリス政府が東アフリカ保護領を提案すると飛びつき、
「この機会を逃さず、小型イギリスにならなければ」などと述べという。小型イギリス?要するに侵略国家?
「まず我々の植民地を獲得することから始めるのだ」
(東アフリカを)「イスラエル初の植民地としよう。これがシオンの基礎となる」
■ 1903年の第6回シオニスト総会にてヘルツルはイギリス政府の東アフリカ提案を読み上げ、イギリス政府の委員会に調査を委ねることが採択されたが、「パレスチナはどうなる」という反発も大きかった。なおこのイギリス政府の提案は、1905年の総会にて拒否することが決定した。ヘルツルは前年に病死している。
ヘルツルはユダヤ教の伝統的な文化を守るよりも、西欧的な国家建設を理想としていた。イズレイル・ザングウィルという作家は、両親がロシアからロンドンに移住したユダヤ人であり、ヘルツルが初めてイギリスを訪れたときに出会ってすぐに支持者となったが(後にシオニズム運動から離れる)、次第にこの男の本性を見極めたのか、辛辣に評する。
「眼に見えるものを見落とすることが、あらゆる理想主義者の幸福な能力である」ヘルツルはパレスチナについての知識に乏しく、イスラム文化に無知だった。それは他のシオニストにも共通しているが、ヘルツルはユダヤ人でありながらヘブライ語もイディッシュ語も解さず、しかもユダヤ教に疎かったそうな。ユダヤ人なのに?
「彼が指導しようと思っている民族のことを知らず、その民族を引き連れて行こうしている国について知らない」
「(パレスチナの状況については)彼はうわさに聞き知っているだけである。ユダヤ人についてはさらに知らない」
ちなみにヘルツルを支持するシオニストらは、彼は「ユダヤ人についてごく初歩的なことも知らない」ので、ユダヤ人の間での派閥争いについては目に触れなせないようにしよう、「そうすれば彼の信念は力を持ち続けるだろうから」と記したそうな(以上、ユダヤ人の歴史 下巻)。初歩的なことも知らないって・・・たとえば日本人だったら、お寺に参拝したとき、葬式でお焼香したとき、パンパン!と手を合わせちゃうとか?そりゃともかく、ヘルツルの支持者らはバカ殿に苦労する家老みたいだな。
彼は「ヨーロッパ文化が骨の髄まで染み込んだ同化ユダヤ人」だっだ。だからイギリスの帝国主義を利用しようと試みることに躊躇しなかったのだろう。いつの段階だか不明だがヘルツルは次のように述べている。
(ユダヤ人の移住が進んでいるアルゼンチンでは)ユダヤ人の「浸透」が進んでいるため、「不幸なことにそこに悪感情」が生じている。(要するにユダヤ人が住んでいる国では他の住民は反ユダヤ主義になる、だからパレスチナ以外に考えられないと誘導したいのだろう)
「パレスチナは、忘れがたいわれわれの歴史的な郷土である」。パレスチナにユダヤの国家を建設できれば「アジアに対する防壁の一部」となり、「それは野蛮に対する文明の前哨基地となる」。
ヨーロッパの移民によって建国されたアルゼンチンについては、その国民との軋轢を心配するが、パレスチナや東アフリカ案についてはそういう懸念を示さなかった。
要するにヘルツルは、パレスチナを「野蛮=非文明=アジア」と決めつけ、そこに「ヨーロッパ文明をもたらす文明化の使徒として入植」するというのだ。仮に東アフリカ案が通ったにしても、同じことを言ったのではないか。
「ヨーロッパの反ユダヤ主義に絶望したと言いながら、ヨーロッパを超えた思想ではなく、きわめてヨーロッパ的な思想」に染まっていた、帝国主義者だった。
■ ちなみに資産家だったヘルツルの父は1873年の恐慌でスッテンテンになったそうだが、ヘルツルは大富豪の娘を娶ったため汗水たらして働く必要はなく、劇作家を目指していた。若い頃はウイーンの有名な劇場の前で友人に「いつかここで仕事をする!」と豪語したそうな。(ちなみにその友人はアルトゥル・シュニッツラーってゆう人で、歴史に名が残る劇作家になったらしい)
シオニズムの運動を始めた後もそういう夢を捨てなかったかどうかは分らんが。お金と時間に余裕があるから、シオニズム運動に没頭できたんだろうし、有名な劇作家になれたかもしれないね。今で言えば映画監督とか脚本家かな、かっこいいよね。
業界人(?)志望だったのとは関係ないだろうが、ヘルツルはいつも「華麗に着飾って」いた。今だったらアルマーニのスーツにロレックスの時計つけてるようなもんか?シオニスト会議での「ヘルツルの威厳のある立居振舞いは「ユダヤ人の王」とさえ呼ばれるほどであったという」(ウィキペディアより)。実際に第1回シオニスト会議では、参加者たちが「王、万歳!」という、古代ユダヤ人の歓呼でヘルツルを迎えたそうな。それだけの風格があったんだろうね。
有力者からも「メシア」「モーゼ」などと持て囃され、あのフロイトは「彼と出会う前に彼の夢を見た」と述べたという。大丈夫かフロイト先生?
もっとも彼の従兄弟は、「高慢なアラブのシェイフのようだ」と評したという。シェイフとは長老や首長を意味するアラビア語らしい。アラブ世界への偏見だが、要するに胡散臭く見えたんだろうな。
しかもお洒落にキメるのは自分だけじゃ気が済まない。公的なシオニストの集いでは出席者全員が「儀式的でフォーマルな」装いではなくてはならない、シオニストの代表として公式訪問する際は、全員がシルクハットにフロックコートではならないと主張したという。(以上、ユダヤ人の歴史 下巻)。そういうこと言う奴って大した仕事できないし、そういう奴の下にいても自分のためにならないような気がするなあ。偏見でごめんなさいね。
何となくどんな人物だったのかイメージが湧いてきた。まあ古今東西、弁舌が立つし、ビジュアル的にも目立つし、要するにキャラが立つので有名になったはいいが、ちょっと感覚がずれていて、言ってる内容は誰かの焼き直しで、だんだん人が離れていく・・・みたいな人物は無数にいただろう。
どこかで読んだか「吉田松陰なんて、奇矯な校長先生みたいなもんだ」などという論評を読んだことがある。(出てきた!)まあこういう人物は大抵、打ち首になるか、だんだん世間から相手にされなくなって自暴自棄のアル中になるか、ただの変なおじさんに戻るが(笑)、その人物の思想というか根底の部分が引き継がれることもあるようだな。吉田松陰はのちの明治政府と同様の帝国主義者だった。(過去ツイート参照)まあこういう思想家の影響があってもなくても帝国主義者は侵略を始めるけど。