部分的に「ユダヤ人の歴史 下巻」(ポール・ジョンソン/著 徳間書店 2000年1月20日 第2刷)、及びウィキペディアからの引用。
1914年に勃発した第一次世界大戦で、イギリスは苦境に立たされていた。西部戦線は膠着し、ドイツ軍の「Uボート」によって多くの船舶が沈められた。
しかも帝政ロシアでは1917年3月に二月革命が起き、ケレンスキー率いる臨時政府と、労働者人民を束ねる「ソヴィエト」との二重構造となった。
「ソヴィエト」は、レーニン率いるボルシェビキが勢力を得て、停戦を主張する。当時のイギリス政府には「ユダヤ人は革命家」という猜疑心があった(実際にロシアのユダヤ人で革命に参加した者もいたという)。
だからこのままではロシアはドイツと単独講和してしまうかもしれない。そうなれば連合国側は敗北、もしくはドイツに有利な条件の講和に追い込まれるかもしれない。
時のロイド・ジョージ内閣はこのような危惧を抱いた。ロシアにおけるボルシェビキの勢力拡大を防がなくてはならない。ボルシェビキを支持するロシアのユダヤ人に訴えかけるような態度が必要だ。これは同時にアメリカで強い影響力があるユダヤ人に訴えかけることにもなる。アメリカは1917年4月にドイツに宣戦布告したが、アメリカの世論はこの戦争に熱心ではなかったという。
シオニスト側も「連合国がパレスチナへのユダヤ人民族的郷土建設に便宜を与えるなら、世界中のユダヤ人が連合国を支援するよう努力する」とイギリス政府に呼びかけた。こうしてイギリス政府はシオニストによるパレスチナ侵略にお墨付きを与える宣言を行うことになった。
■ 1917年7月にシオニスト側は、貴族院議員であり男爵のライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに、公式宣言の原案を渡し、さらにロスチャイルドはこれを外務大臣アーサー・バルフォアに転送した。
「パレスチナはユダヤ人の民族的郷土として再構成されなければならない。イギリス政府はこの原則を受け入れる」イギリス政府が発する公式宣言の原案を、これを待ち望むシオニスト側が作成するというのはおかしな話だ。まあ世の中ヤラせばかりだけどな。
「イギリス政府はこの目標実現のために努力し、シオニスト機構と討議する」
この原案に対し、ユダヤ人である閣僚エドウィン・サミュエル・モンタギューが反対していた。以下に要約する。
「シオニズムは前提からして間違っている。ユダヤ人の結束はユダヤ教という宗教がもたらすものである。ユダヤ国民という存在しない観念によるものではない。これは現在にも通じる的確な指摘だ。イスラエル国民と、世界中のイスラエルを支持する全ての連中に読ませてやりたいものだな。
キリスト教徒のイギリス人はイギリス人であり、キリスト教徒のフランス人はフランス人だ。両者は別の国家の国民だ。ユダヤ教徒も同様だ。
パレスチナと歴史的に結びついているのは、ユダヤ人だけではない。キリスト教もイスラム教も、歴史的にパレスチナが大きな役割を果たしてきた。
現在のパレスチナはイスラム教徒のトルコ人やアラブ人が多数派であり、キリスト教徒は人口の五分の一、ユダヤ教徒は四分の一だ。
しかもパレスチナのユダヤ人社会は『ヨーロッパの百万長者のユダヤ人からの寄付金や補助金で人為的に育成されてきた』ものでしかない。
しかし「パレスチナがユダヤ人の郷土」ということになれば、現在ユダヤ人が住んでいる国々はユダヤ人を、その「郷土」に向けて追い出そうとするだろう。追い出されたユダヤ人は、現在のパレスチナ住民を追い出そうとするだろう。パレスチナに、人口を大規模に拡大できる余裕があるというのか?拡大できないなら、現在の住民のどの部分を追い出そうとするのか?
シオニズムは有害な政治思想だ。これを支持するイギリスのユダヤ人は多くない。つまりシオニスト団体はユダヤ人を代表していない。せいぜいのところユダヤ人の半分だ。それなのに政府はシオニスト団体の道具に成り下がろうとしている」
■ 原案に各方面からの批判を配慮し修正された上で、1917年11月、外務大臣アーサー・バルフォア(元首相)が、貴族院議員であり男爵のライオネル・ウォルター・ロスチャイルドにシオニズムの支持を表明する書簡を送った。これが有名な「バルフォア宣言」であり、「サイクス・ピコ協定」「フサイン=マクマホン協定」と共に、「三枚舌外交」と言われている。
His Majesty's Government view with favour the establishment in Palestine of a national home for the Jewish people, and will use their best endeavours to facilitate the achievement of this object, it being clearly understood that nothing shall be done which may prejudice the civil and religious rights of existing non-Jewish communities in Palestine, or the rights and political status enjoyed by Jews in any other country.
「イギリス政府は、ユダヤ人のための一民族的郷土をパレスチナに建設することを好感視し、この目的の達成を助長するために最善の努力をする。現実は、「パレスチナに存在する非ユダヤ人」の権利を損なわないどころか、虐殺と追放が続いているが。
ただし、現にパレスチナに存在する非ユダヤ人社会の市民的権利と宗教的権利を損ねたり、パレスチナ以外でユダヤ人が享受している諸権利ならびに政治的地位を損ねたりすることは、一切ないことを明快な了解事項とする。」
ところでこの宣言は”nation home”というフレーズ(日本語に訳せば民族的郷土)というフレーズが、”a nation home”という表現になっている。”the nation home”じゃないんだよ。“a city”と、“the city”なら意味が違うよな。
つまりパレスチナだけがユダヤ人の「民族的郷土」ではなく、各地のユダヤ人たちが暮らしている国々も、そのユダヤ人にとっての「民族的郷土」というであるという含みが生まれる。これは「イギリスこそ我々の祖国」だと主張する反シオニストのユダヤ人の発案だった。
しかも、
“establishment of a national home in Palestine for the Jewish people”
という表現なら、「パレスチナをユダヤ人の民族的郷土とする」と解釈されるだろうが、
“establishment in Palestine of a national home for the Jewish people”
という表現に修正された。”in Palestine”が、”of a national home”の前に来たんだよ。これなら、「パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設する」と言っても、パレスチナ全域を「ユダヤ人の民族的郷土」にする、とは言ってない!という逃げ道が出来るだろう。
こうして、現在パレスチナに居住するイスラム教徒やキリスト教徒の権利と、世界各国に居住するユダヤ人の権利に配慮したものとなった。
■ このような修正が加えられたバルフォア宣言に、有力なシオニストであったハイム・ヴァイツマン(後のイスラエル初代大統領)は不満だった。「やっと子どもが生まれたが、期待していたような子どもではなかった」などと記したという。
しかしこの宣言は、パレスチナの人々にとって、世界にとって、極めて重大な事態をもたらしたのではないか。「シオニズム運動を活性化しただけでなく、運動の分水嶺となるような大きな節目」だった。
「バルフォア宣言はジグソーパズルの鍵となる一片だった。この宣言がなければユダヤ人国家は絶対に実現しなかったであろう。ヘルツルとヴァイツマンのおかげで、ユダヤ人はようやく間に合ったのである」「間に合った」というのは、その時点でパレスチナ60万人のうちユダヤ人は10万人程度であり、もし第一次世界大戦が終わる前にアラブ人が協力して外交的に適切な活動をしていれば、またはパレスチナのアラブ人が組織されていれば、バルフォア宣言は出せなかっただろう。1年遅くても無理だった、ということ。(以上、ユダヤ人の歴史 下巻)
ヘルツルの扇動やシオニストの工作がもう少し効果が薄ければ、アラブ社会が連帯すれば、イギリス政府がドイツに勝つため各国のユダヤ人に訴えかけようというおかしな発想をしなければ、イスラエルという残虐なテロ国家は誕生しなかったのかな。どうかなあ。
実際、シオニストの期待通りに事が運んだようだ。当時首相のロイド・ジョージも、バルフォア自身も、「パレスチナ全土がユダヤ人の郷土」だと考えていた。バルフォアはシオニスト指導者に「パレスチナにユダヤ人の郷土が出来るということではなく、パレスチナがユダヤ人の郷土にならねばならないということだ」と念を押されてあっさり同意し、ロイド・ジョージも「ユダヤ人が住民の中の多数派になったら、パレスチナはユダヤ人コモンウェルスになる」と述べた。
もっとも、親シオニストだったチャーチルは、1921年植民地大臣を務めていたとき、カナダの首相にバルフォア宣言以後のパレスチナ政策について問われた際、上記のような見解は否定している。
(パレスチナに設けられるべき)政府の統制権をユダヤ移民に与えるのかと問われ、相当の年数が経過してユダヤ移民がアラブ人との比率で上回れば、あり得るだろう。アラブ人を追い出したり政治的・社会的権利を奪うようなことはしないと誓約をした・・・と答えた。(以上、ユダヤ人の歴史 下巻)
1922年にも、「バルフォア宣言は、パレスチナ全土をユダヤ人の民族的郷土に変えることではなく、そのような郷土をパレスチナに建設することを約束したに過ぎない」と述べている。・・・この時点でのチャーチルの見解のようにバルフォア宣言が守られていれば、パレスチナの人々が21世紀に至っても虐殺され追放され続けることはなかったはずだが。もちろんこれはイギリス政府の「妥協の産物」であり、その場しのぎにいい顔を見せただけだが。
■ バルフォア宣言の5日後、1917年11月7日、ロシアで十月革命(ロシア暦10月25日)が起きて、レーニン率いるボルシェビキが政権を掌握し、ドイツとの単独講和に向けた交渉が始まった。イギリスの、ロシアを連合国から離脱させまいとする本来の目的は無意味になったが、シオニストにパレスチナへの入植の正当性を与えた。
第一次世界大戦の終結後、パレスチナはイギリスの委任統治となり、バルフォア宣言に従ってユダヤ人の入植を認めたため、アラブ側の抵抗が激しくなり、1936年から「パレスチナ独立戦争」が起こった。シオニストも武装し、次第にイギリスに手に負えない状況になっていく。
1937年、王立のピール委員会は、パレスチナ分割案を提示。パレスチナをパレスチナ人国家とユダヤ人国家、及びイギリスの委任統治に分割するというものだった。初めてイスラエル国家建設に言及するのものであり、シオニスト側は好意を示したが、アラブ側は激怒し否定。
1939年5月イギリス政府は、中東情勢の変化のためアラブ諸国に配慮した“White Paper of 1939”を発した。その当時の植民地大臣マルコム・マクドナルドの名から「マクドナルド白書」とも言われる。今後5年間にユダヤ人のパレスチナへの移住を7万5千人だけ認めるが、それ以降はアラブ側の同意が無ければ認めない。そしてパレスチナは段階的に独立国家になる・・・というものだった(以上、ユダヤ人の歴史 下巻)。もちろんバルフォア宣言に反するようなこの方針も、イギリスの外交戦略のためだったが。
当然シオニスト側は猛反発し、イギリスに対するテロ計画を練ったという。もっとも第二次世界大戦の勃発によって実行されなかったが。(ウィキペディア英語版“White Paper of 1939”より)
1946年7月には、メナヘム・ベギン(後のイスラエル首相)率いるテロ組織「イルグン」がエルサレムのキング・デイヴィッド・ホテルを爆破。翌年イギリスはパレスチナの委託統治を放棄。1947年11月に国連がパレスチナ分割決議を採択。1948年4月にイルグンはデイル・ヤシーン村で住民を虐殺。イスラエルとは建国以前からテロ集団であったことが分かる。5月14日にシオニストはイスラエル建国を宣言、「ナクバ」が始まった。こうしてバルフォア宣言は完全に捨て去られた。