2025年08月02日

2025年 花岡現地闘争 @「七ツ館事件とその背景」(noteより転載)

 この記事はnote より転載。
 今後は政治・社会問題、歴史認識問題、デモや集会などについての記事は、まずnoteに投稿し、こちらにも転載することにする。気が変わるかもしれないが。こちらに転載する際には、デモの打ち上げで飲みすぎた、などという個人的な思い出も載せるかもしれない。同時に、毎度の下品なネットスラングを用いた文体に戻すかもしれない。一人称については「俺」「私」を混在させてしまっているが、まあこれは気分次第で。

 2025年6月29日から3日間、秋田県大館市に滞在し、花岡事件の慰霊式、集会、フィールドワークなどに参加した。noteに3つに分けて投稿するつもりだが、まだ1つ目を投稿しただけ。その1つ目をこちらに転載した。
 28日の夜に大宮駅東口から秋北バスで出発、7月1日の夜にまた秋北バスで帰ってきた。大館市主催の慰霊式は30日だけど、29日も7月1日も花岡事件に関する行事があるし、28日と7月2日は仕事だし、せめて帰りは鉄道を利用したかったが、夜行バスで往復する以外手段が無かった。大館市は新幹線が停まる駅からかなり遠いからね。往復で買えばちょっと安くなったはず。
 6月28日の勤務を終えて大宮に行けば時間的に余裕だが、突発的な対応がときどきあるんだよ、ビル管理だから。天井から水漏れとかトイレが逆流したとか照明器具が焦げたとか、いつ起きるか分かんないし。終電なくなって立ち呑みしながら始発を待ったこともあったし。それにシフトで動いている職場なのに、交代の時間に遅刻したり、体調悪いとか抜かして休む奴もいるし。まあシフトの職場ならどこでもあり得るだろうけど。
 だから夜行バスの時間に間に合わなかったら翌朝の新幹線で行くしかない。それでも29日の午前中のイベントは間に合わない。バスのチケット代は戻らない。余分な新幹線代がかかっちゃう。冗談じゃねえぞ!焦る焦る!中央監視設備よ、警報鳴らないでください!防災センターの人たち、困った案件を連絡してこないでください!今夜の夜勤の奴、早く出社してください!
 帰社時のタイムカードを打つまで(いまどきパソコン)、落ち着かなかった。まるで、日が昇ってきたのに煉獄さんに首を斬られそうになってる猗窩座の気分だった。大げさですか?もうこんなこと絶対やめよう。関係ないけど無限城編観てきた。現在、「猗窩座ロス」に苛まれているw

 そして大宮駅東口に出て、まずバス停を確認してからラーメンと生ビールでも・・・と思っていたが、バス停が何ヵ所もあるからどこがどこだか分らない。路線バスのバス停ばかりで、長距離バスのバス停がさっぱりわからない。グーグルマップでもそんな細かいこと書いてない。無駄に時間が過ぎていく。仕方ないからスマホでググってみたら、分かった。大宮駅東口前の最初の信号を渡ったところにある、大宮駅東口9番バス停!高島屋の向かい、マンボープラス大宮東口店の前だ!
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 こんな駅からすぐそばの分かりやすい場所が見つけられずにウロウロしてたんだ。悲しくなっちゃうよ。しかしこの案内を見なけりゃバスに乗り遅れてたかも。一生立ち直れないな。おかげさまでラーメン屋に入る時間は無くなり、コンビニで買った缶ビールとおつまみが夕ご飯。
 バス車内の客席は3列、俺は予約が遅かったから真ん中の列。東北道に入ったら、やはりカーテンが閉められ、圧迫感がすごい。出荷される家畜の気分。トイレは狭い。ほとんど寝れなかった。
 翌朝バスは東北道を降り、数ヵ所のバス停を過ぎ、「いとく大館ショッピングセンター」に到着。同志の皆さんと合流し、ホテルで朝食。


 というわけで、まずは6月29日、大館労働福祉会館で行われた「2025年6.30 フォーラムin大館」について記す。昼休みを挟んで10時から16時までの長丁場だった。
 なおこの集会は、花岡和解を成立させた内田雅敏弁護士、田中宏教授、華僑の林伯耀氏ら支援者、及び和解を支持する人々の主催である。
 「中国人強制連行を考える会」という、彼らの市民団体があったが、そのサイトは10年近く更新されていない。この名称は使用されていないのかもしれない。

 午前中は、「花岡の地・日中不再戦友好碑を守る会」の齋藤光雄さんの講演「七ツ館事件とその背景」。この「守る会」はその名が示す通り地元の市民団体である。以下はレジェメより引用。

 戦時中の増産体制によって花岡鉱山は乱掘が続き、1944年5月29日に坑道の真上の花岡川が陥没。七ツ館坑で作業していた朝鮮人労働者11人、日本人労働者11人が生き埋めになり死亡する大事故が発生。
 七ツ館坑では花岡川からの漏水が続いていて、現場労働者は鉱山を経営する同和鉱業に、人道竪坑(人間が出入りするための坑道)を設けるように何度も申し入れしていたが、同和鉱業は聞き入れなかった。
 七ツ館坑への出入りは、「堂屋敷抗三番抗」と「七ツ館三番抗」の間の連絡抗しかルートが無かったが、連絡抗の真上の花岡川の陥没によって、七ツ館坑で作業していた労働者は袋のネズミになってしまった。救出作業は途中で中断され、救出されたのは1名だけだった。

 1955年1月に同和鉱業が外務省に提出した「七ツ館抗陥没災害報告書」は、当時の状況を次のように記す。
 「関係官庁の指示に従い災害発生と同時に救出作業」に入り、ポンプ3台設置し排水。堂屋敷坑道より昼夜、救出作業を続け、6月1日に坑内から朝鮮人1名を救出。
 しかし「七ツ館坑から堂屋敷抗への泥水の噴出が激しく」、堂屋敷抗も危険な状態となったため、6月16日、「大館警察署長等と詮議の上、遭難者は殉職せるものとして坑内作業を中止した」(当日のレジェメより)

 さらにこの報告書によると、事故直後に遭難者の家庭相談所を開設、犠牲者の家庭を訪問、軍需大臣より見舞金を受領、遺族扶助金、特別弔慰金の調書を作成し、6月18日に合同葬、6月25日に社員が遺族に弔慰金を手渡すため朝鮮を訪問したというが、戦後は犠牲者の遺族を警戒するような姿勢が見られる。
 「葬儀も弔慰も完了している」のに、「花岡在住の朝鮮人25人が本件をむしかえし、自分たちを雇い入れるようにとか、現在の賃金ベースに引直して当時の賃金を支払えとか無法な要求をしている」
「地元警察より連絡を受けたところでは、朝鮮人団体が本件につき、外務省や韓国代表部に陳情する計画なりとの情報であったので、事前に事件の経緯を知っておいてもらうため、本日資料を持参した次第なし」(レジェメより)

 つまり事件の補償を求める動きを察知したため、戦後10年経ってから外務省に資料を提出したのだ。

 事故後の同和鉱業の対応について、この報告書の説明とは異なる証言もある。
 事故の瞬間、現在の大館市の中心部の学校で二度の大きな地鳴りが聞こえた。生徒たち約200人が救出作業に動員されたが、作業用具が不足のためほとんどやる事がない。
 「考えてみると、一度に大量の応援隊を集めてみたものの、作業用具の準備をしなかったらしい」
 「それでもまだ何人か生きている」という話が伝わり、「必死になってモッコ担いで土砂を捨てた」。
 夜は鉱山のバラック宿舎に泊まったが、一週間後「救出の見込みなし」ということで解放された。
 (花岡の地・日中不再戦友好碑を守る会発行 花岡事件50周年記念誌・・・レジェメより)

 あの頃の坑内は、日に何センチも下がった。抗木はなし、人手はなしで、増産増産で掘りまくったもんだから、とうとう花岡川の底までブチぬいてしまった。
 人道竪抗さえ掘っていたら、あんなに22人も殺さないですんだのです。何人かは、人道竪抗を使って逃げることが出来たのです。
 はじめから、そういうことを思っていたから、我々は、鉱車竪抗だけでなく人道坑道も掘るように、何度も会社さ、言ったんです。それなのに会社は掘らなかった。七ツ館抗の坑夫の往復には、堂屋敷抗三番抗から七ツ館三番抗を繋ぐ連絡坑道を掘って、それを使わせた。ところが花岡川は、その連絡坑道の真上を、十字に切って流れている。だから川の陥没と一緒に連絡坑道がダメになって、同時に七ツ館の坑夫は、袋のネズミとなったのです。
 おらの舎弟なども、まだ働き盛りの年なのに生き埋めです。
 それから俺たち三昼夜、あの陥没坑道に入りきりで、泥水から岩盤からみな掻き出して、助け出せたのは朝鮮人一人だけでした。しかも会社は、まだ陥没した坑道の奥でタガネかハンマーでレールを叩いて合図している者がいるのに、坑内の閉塞作業を命じた。
 (松田解子/著 花岡事件おぼえがき・・・レジェメより)

 なお(同和鉱業の報告による)救出作業終了の6月16日以降、陥没地帯の埋め立てが行われ、1952年より「坑内状態は安定せるものとして開抗、土砂埋め立て抗より坑内作業に入った」。つまり鉱石採掘が再開されたということか?
 そして1955年より「遺体が順次引揚げできるのではないかと思われる状態になった」が、実際は行われなかった。レジェメでは、「朝鮮人強制連行の記録」から引用されているが、たまたま俺の本棚にこの著書が死蔵されているので、同著から引用する。
 『七十年之回顧』(同和鉱業株式会社刊)によると、『(1944年)5月29日、突如として七ツ館抗が坑内伏流水の以上出水のため崩落し、奔出地下水は泥流水となってたちまちポンプ座を浸し、連絡坑道に侵入して堂屋敷七抗番抗以下を水没せしめるという不測の災害が発生。崩落箇所で二二名の尊い殉難者を出したのは花岡鉱山史上痛恨きわまりないことであった』
 と事故を紹介している。たいていの本が朝鮮人のことにはふれていないように、これにもただ漫然と二二名の殉難者と記している。同和鉱業はなぜこの犠牲者の遺体を盛りださないのか。

 戦時中ここで働き現在もこの町に住んでいる金氏にきくと、会社では掘り出すと言いながらも誠意がなく、結局そのときどきに何らかの口実を作って引き延ばし20年の歳月が過ぎてしまったという。

 日本人犠牲者の遺族の何人かは会社に現在も働いており、また最近墓を建てる費用として一人15万円を出して買収工作をしているので、遺体掘り出しの要求が抑えられているのである。
 朝鮮人の場合、死亡当時、遺族は葬儀にも代表者しか参加させてくれず、解放後も遺族との連絡を取らず放置されたままで、朝鮮人聯盟、朝鮮人総聯合会支部では何回も会社と交渉を重ねたというが、会社は卑劣にもその責任を回避しているのである。
 (朝鮮人強制連行の記録 朴慶植/著 未来社 1965年初版 P-200 〜 201)

 「戦時中ここで働き現在もこの町に住んでいる金氏」とは、朝鮮総連支部の金一秀氏のことと思われる。

 「日中不再戦友好碑を守る会」代表だった佐藤守さんは、かつて次のように述べた。
 22人の遺骨がどうなったか、私たちも色々調べたが、よくわからない実情。戦後七ツ館抗をオープンコラム工法で露天掘りしたため22人の遺骨も掘られ、方々に散失しまったという人と、その場所とは別のところに埋まったままだと言う人もいるが、会社側は明らかにしていない。(レジェメより)

 今も七ツ館事件の犠牲者はかつての坑道に埋まっているのか、それとも露天掘りの際に土砂に混じって捨てられたのだろうか。

 なお金一秀氏は「徴用」による強制連行被害者だった。当時、「面」の役人や日本人警察官・憲兵が、突然金氏の自宅に押し入り、拉致された。
 家といっても石と土で堀をまわし木戸に錠をかけただけの家だから、奴ら破るの、ワケない。私の家に来たのは午前2時頃、母が泣いて頼むのに、無理やり連行された。

 金一秀氏は花岡蜂起のあと共楽館の前で晒し者になっていた中国人を目撃していた。 戦後も花岡に住み、信正寺の納骨堂に納める作業から漏れた中国人白骨が山野に散らばっている光景に愕然とし、1949年に東京の華僑協会に赴き、「これは君たち同胞のことだから国連に訴えるべきだ」と告げたという。(尊厳 半世紀を歩いた花岡事件 P-124)

 余談になるが、朴慶植氏は花岡を訪れた際(同署の初版が1965年だから、それ以前)、信正寺も訪れたという。
 わたしは去りがたい気持ちで七ツ館の地から信正寺を訪れ、過去帳を見せてもらった。はじめ現住職が留守で大分待たされたが、何だか私は留守番の老住職が同胞に対して関心が深くないように思えてさびしかった。ここは中国人の大量虐殺事件がクローズアップされているため、朝鮮人問題については案外関心が薄いのではないかと思った。ここの過去帳には、1943―45年、一五名の同胞の名があったが、七ツ館犠牲者の名前はない。
(朝鮮人強制連行の記録 朴慶植/著 未来社 1965年初版 P-201)

 七ツ館事件は、生産性だけを追い求め安全性を無視した結果、起こるべくして起こった人災だった。この人災によって、坑道の上を流れる花岡川の水路を変更する工事が開始され、強制連行された中国人が動員された。侵略戦争の継続のため鉱山労働者22人の命を奪った日本帝国主義が、さらなる犠牲を強いたのである。

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 (信正寺の墓地に立つ、「七ツ館弔魂碑」)


 フォーラムの話の続き。
 齋藤光雄さんの講演に続いて、花岡受難者のご遺族の方々の証言、「花岡事件受難者追思の旅」報告会(林伯耀氏らが発言)、内田雅敏弁護士が「未完の日本国憲法 戦後補償、沖縄」と題して講演。失礼だが林氏や内田氏の発言中は睡魔との戦いだった。完全に敗れたw
 さぞかし両氏から、花岡和解を誇る発言があるだろうな、と期待していたが、意外にもこの日は花岡和解に触れる発言は極めて少なかった。
 しかしプログラムと共に配布された資料の中には、「世界」2008年7月号の林伯耀氏寄稿「大事な他者を見失わないために:花岡和解を戦後補償の突破口に」のコピーがあった。和解を批判する野田正彰氏への反論である。
 また「花岡事件受難者中日聯合追思之行 2024.11.14-20 報告集」に、林伯耀氏のコメントがある。(抜粋)
 いまも花岡和解をくさす人たちがいる。企業に法的責任がないことを承認し免罪を得ているとか、謝罪がないとか。
 有名な精神科医が大館市主催の慰霊式を横目に見ながら『これは茶番だ』と言い放った。えらい学者というのは、大衆が汗かくことを嘲笑し、自ら汗をかくことを嫌い、しきりに他人のあら捜しをしているように思える。
 世界のどこに、加害者が自らの法的責任を認めた和解があっただろうか?ドイツ戦後の何十という企業との和解や、歴史的な『記憶・責任・未来基金』においてすら法的責任の言葉は見当たらない。
 (花岡事件受難者中日聯合追思之行 2024.11.14-20 報告集)

 「有名な精神科医」というのは野田正彰氏のことだろうか。今でも腹の虫がおさまらないのかな。 花岡和解条項が批判されるのは、鹿島に法的責任が無いことを原告も認めた、としか読めないからだ。他の裁判は知らんが、謝罪も無いし。

 ところで、林伯耀氏のドキュメント映画「老華僑は黙らない」の宣伝がなかったな。批判されているから、警戒しているのかも?
posted by 鷹嘴 at 11:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 花岡事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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