またこの災害の中で、多くの朝鮮人・中国人・社会主義者が、群集や日本軍によって虐殺された事実も忘れてはなりません。
デマに踊らされた群衆が朝鮮人を虐殺した事件は、東京だけでなく神奈川、千葉、群馬、栃木、そして私の住む埼玉県でも発生しました。
「朝鮮人が爆弾を投じた」「井戸に毒を投じた」などというデマの詳細を、事件当時の地方紙が報じていました。
横浜方面から 鮮人三百人押寄す 爆弾を投じ掠奪をなす
東京電気大学生徒西郷正秀君談
品川は三日に横浜方面から三百人位の鮮人が押寄せ掠奪したり爆弾を投じたりするので近所の住民は獲物を以て戦ひました 鮮人は鉄砲や日本刀で掛るので危険でした 其中に第三連隊がやつてきて鮮人は大分殺されましたが日本人が鮮人に間違はれて殺された者が沢山ありました(北海タイムス 大正12・9・6)
(みずす書房「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」 P-173)
土管で生きた三万人 鮮人の恐るべき自白 逃れて来た罹災者の話(抜粋)
やがて爆弾を携帯せる鮮人を引捕へた。恐らく首魁者の一人であろうといふので厳重に詰問した揚句遂に彼は次の如く白状した。
「われわれは今年の或時期に大官達が集合するからこれを狙つて爆弾を投下し次で全市至るところで爆弾を投下し炸裂せしめ全部全滅塵殺を謀らみ また一方二百十日の厄日には必ずや暴風雨襲来すべければその機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし 機の到来を待ち構えていた折 炳大地震がありこれで御大典もどうなることか判らないからこの地震こそは好機逸すべからずとなし此処に決行したのである」
と聞いた一同の憤懣遣る方なく さてこそ風向きと反対の方面に火の手が上つたり意外の所から燃え出したりバチバチ異様の音がしたりしたのは正に彼等鮮人が爆弾を投下したためであつたことが判然したので恨みは骨髄に達し評議忽ち一決してこの鮮人の首は直ちに一刀の下に刎ね飛ばされた かく捕へられた鮮人二十四人は十三人一塊と十一人一塊と二塊にして針金で縛し上げ鳶口で撲り殺して海へ投げ込んでしまつたけれどもまだ息のあるものもあつたので海中へ投入してから更に鳶口で頭を突き刺したが余り深く突き刺さつて幾人もの鳶口がなかなか抜けなかつた また外に三人の鮮人は三号地にある石炭コークスの置場の石炭コークスが盛んに燃えている中へ生きてゐるまま一緒に引き縛つて投げ込んで焼き殺してしまつた
実際惨酷らしいやうだがしかし深川辺りでは井戸へ毒を投入したため罹災者の子供がそんな事とは知らないでその水を飲んだため握り飯を持つたままころころ死んで居つたり毒入り飴を子供が食て死んでゐるのを見たりするのに較べるとまだ何でもない事である。
(河北新報 大正12・9・6)
(同上 P-171〜172)
これらのデマの元は、火災現場で何かが破裂する音がしただけであったり(竹の棒を焚き火で燃やしても破裂します)、朝鮮人が井戸の水で米を洗っているだけであったり、飲み薬を携帯していただけだったのです。
爆音の実情
悲しくなつて見ている中に、浅草の各興行物の家屋もどんどん焼けて、時にボーンボーンと大きな爆弾を投げたやうな音がきこえる。瓦斯管とか、建設用材の鉄管とかいふものが熱のために中の空気が膨張して爆発するのだろうと思つたが、この音が後に朝鮮人が爆弾を投げ込んだといひふらされた音である。若し真実さうだろうと思つている人が多いならば朝鮮人は余程迷惑を蒙ることであろう。竃の中に竹を一本入れて燃やしてもかなり酷い音がする。種々の設備のしてある家屋の焼ける時はこの位の音はいろいろの物から発するのである(来馬琢道「一仏教徒の体験したる関東大震災」)
(同上 資料解説P-19)
九月十九日臨中第一四二号(憲兵隊の報告)
一、 九月四日午前11時頃、子安町一一七番地内山泰治方の井戸に年齢十八才位の白のシャツ股引を着したる男、及朝鮮服を着したる女二名にて、毒薬を投じたる事実ありとの風評に関し調査したるに、女三名は米を洗ひ居たるを附近の者見誤りて、彼等が劇薬を井戸に投じたるものと吹聴したること判明せり。
二、九月四日、新子安(京浜電車停車場附近)に於て、薬瓶に入れたる毒薬を携行せし朝鮮人一名俳諧し居たりとの風説に対し、調査したるの、該当鮮人は自己の服用すべき治療薬を携行し居たるものなること判明せり。(海軍省文書「公文備考」)
(同上 資料解説P-19〜20)
また埼玉県は次のような「通達文」を発し、混乱を拡大させました。
埼玉県通達文これは10月になってから各紙が取り上げ、大きな非難を受けることになります。
東京に於ける震災に乗じ暴行を為したる不逞鮮人多数が川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、又其間過激思想を有する徒之に和し以て彼等の目的を達成せんとする趣聞き及び漸次其毒手を揮はんとする虞有之候就ては此際警察力微力であるから町村当局者は在郷軍人分会、消防手、青年団員等と一致協力して其警戒に任じ一朝有事の場合には速かに適当の方策を講じるやう至急相当手配相成度き旨其筋の来牒により此段移牒に及び候也(同上 P-145)
非難の的となつた埼玉県当局の移牒文
園部警察署長は愈々引責辞任するらしい
埼玉県当局が震災直後に管下各町村に向つて激烈な通牒を発し自警団の暴行を誘発し非難の的となつていることは既報の如くなるが右事件の公判は近く開廷されるので弁護の地位に立たんとする各弁護士は早くもこの点に着眼し材料蒐集に着手し問題の移牒文を最も有力なる材料としている。当時斯く長官が斯る誘引材料を自から撒いて置きながら自警団の続続検挙されるのを余所事のように見ている態度に憤慨しているものが多いが玆に本庄助役が通牒を郡から接受した際一読その過激文句に驚き町内に触れ廻りその危険を感じ一度は握り潰そうとしたが『極秘急』の印があるので渋々ながら各区長に早駆け人夫を飛ばしたが今日に至り当時全然握り潰せばよかつたと後悔して居るという 本庄町民は助役の心事を多とすると同時にますます県の処置に憤慨している 斯かる非難の間に司法権の発動は容赦なく進められるのでこれ等総体的の責任の地位にある友部警察部長は深く感ずるところあり 事件紛糾以来辞表を懐にし事件落着と共に天下をして無警察の状態に陥らしめた責を引いて辞任する決心を固めているといふ。(埼玉電報)(河北新報 大正12・10・20)
(同上 P-145)
こうして発生した埼玉県内各地に於ける凄惨な朝鮮人虐殺事件のうち、有名な本庄市の事件を紹介します。
地震発生から3日後の9月4日、本庄警察署は保護していた朝鮮人をトラックに乗せ、群馬県藤岡署に移送しようとしました。しかし藤岡署から受け入れを拒否され、本庄署に戻ってきたところを群衆に襲撃され、何十人もの朝鮮人が虐殺されました。
語る人 元本庄警察署新井巡査
群馬県へ送ろうということで、神流川の河原までいったが、群馬県側が受け取らず藤岡署と交渉した。その間十六名の朝鮮人を河原におろして交渉した。
本庄署では、前夜(三日夜)から保護していた朝鮮人が四十三名いたが、電話でデマにおびえた人達からの出動要請があって警官は出はらっていた。私が警察に残って外からの電話に出ている時、警察がからっぽであることを見ていった奴がいたのだ。
私が神保原の派出所に電話をかけると、電話からキャーキャーワーワという惨劇の声が伝わってきた。トラックに同乗して神保原に行き、群衆におそわれて派出所に逃げこんだ村磯署長をその電話に出してもらおうと思ったが、村磯署長は机の下にかくれているということだった。
本庄署へ引き返してきた三台のトラックは、朝鮮人を満載していた。私もそのトラックに乗っていたが、集まってきた群衆の中に青木紋九郎というギュウタロウがいた。その紋九郎が、「あいつは朝鮮人の偽巡査だ。あいつからやっちまえ」と煽動した。それがあいづとなって一せいに群集が襲いかかり、あの惨劇がはじまったのだ。私は一瞬早く車から降り避難した。この紋九郎という男は、長野県の県会議員の息子で教育もあり、弁も立つ男だった。私は後になって加害者を報告する時、この男を一番先にあげた。
惨劇の模様はとても口では云いあらわせない。日本人の残虐さを思い知らされたような気がした。何百人という群衆が暴れまわっているのを、一人や二人の巡査ではとうてい手出しも出来なかった。こういうのを見せられるならいっそ死にたいと考えたほどだ。
子供も沢山いたが、子供達は並べられ、親の見ている前で首をはねられ、その後、親達をはりつけにしていた。生きている朝鮮人の腕をのこぎりでひいている奴もいた。それも途中までやっちゃあ、今度は他の朝鮮人をやるという状態で、その残酷さは見るに耐えなかった。後で、おばあさんと娘がきて、「自分の息子は東京でこのやつらのために殺された」と云って、死体の目玉を出刃包丁でくりぬいているのも見た。
当時演武場は、警察署の方ではなく、町役場の方から電灯をひいていたので、演武場の電気は警察の方からは消すことができなかった。私は演武場の中の四十三人が見つかっては大変だからと、電気を消すように役場の方へ頼んだが、一向に通ぜず、そのうちに、演武場の中の朝鮮人も見つかってしまったのだ。「ここにいた」というわけで、群集は演武場に押しかけ、四十三人ことごとく殺してしまった。朝、私が演武場に行った時、立てかけてあった畳の陰にいて助かった二人の婦人から、水をくれ、と頼まれ小使いにもたしてよこすから、といっている間に、朝早くからやってきた群集に見つかり、昨夜の凶行場所に連れていかれ、ベンチの上で刺し殺されてしまった。私はどうすることもできなかった。
警察署の構内は前夜の凶行で血がいっぱいだった。長靴でなければ歩けなかったほどだ。警察署の構内で殺されたのは八十六人だが、本庄市内で殺されたのもいた筈だ。死体も見たが十五、六人位・・・二十人まではいなかったと思う。
署内の留置所にいて一人助かったが、これも群衆が「凶行を見られてしまったからには、朝鮮へでも帰って話されたら大変」というわけで、留置所の鉄棒の間から、竹槍で突こうとしたのだが、あっちへ逃げ、こっちへ逃げして、とうとう助かったのだ。これは後でどこかへ送られた。私は長い間、朝鮮人の「アイゴウ、アイゴウ」という悲痛な叫びが耳からはなれなかった。
(中略)
9月6日には、朝鮮人を保護しようとした村磯署長や新井巡査に不満を持つ群集が再び本庄署を襲撃し新井巡査を殺害しようとしましたが、すんでのところで軍隊に制止されたそうです。
警察署に集まった群衆は署内に入りこんで数々の乱暴をした。そして私のいるところまで上がってこようとした。私は既に覚悟を決めていた。もし上がってきた奴がいたら切り殺してやろうと身構えていた。群衆はいろいろと私に見られているので、私をねらったのだ。しかし群衆の中にも私の味方がいた。
これは後で聞いた話だが、当時本庄署の構内に大きな桜の木が何本かあったが、その木に私の味方が登っていたのだ。そしてピストルをどこから持ってきたか知らないが、ピストルを持っていて、近づこうとする奴がいると、大きな声で「新井巡査に近づくとピストルで打つぞ」とどなっていたのだそうだ。
そんなわけで私はどうにか無事だったが、いよいよもうだめだという時が来た。私は時計を見ながら、後五分だと思った。その時、東京へ向かう軍隊が在郷軍人の人達の努力で、本庄におり、この暴動をおさえるために出動してくれたのだ。剣付鉄砲のおかげで、群衆はとび散ってしまった。後五分遅れていたら私は殺されていたろう。この事件後、しばらくの間、本庄町には軍隊が一個中隊駐屯していたし、憲兵屯所もできた。事件後、人々はこの事件でおとがめはあるまい、もし何かのさたがあるとすれば、論功行賞だと考えていた。虐殺事件の翌日など、ある人間は、私に向って「不断剣をつって子供なんかばかりおどかしやがって、このような国家キン急の時には人一人殺せないじゃないか。俺達は平素ためかつぎをやっていても、夕べは十六人も殺したぞ」といったりした。
このように殺害犯は反省するどころか手柄だと自慢していたようです。また処罰もまともに行われませんでした。
この事件の関係者の検挙は、九月十八日、一せいにねこみをおそって行われた。これには駐屯していた軍隊が着剣して応援した。
逮捕された人達は、本庄で又混乱が起ってもというので、深谷警察へ送られた。この二階に臨時検事局ができ、十人の検事によって調べが開始された。私はその時つきそっていたのだが、その時皆口々に「論功行賞にあづかるんなら申し上げましょう」といい、検事に「人を殺してほうびをもらえるのは、戦争の時だけだ」といわれると、皆ふてくされて「それじゃ何も知りません」というのが皆の態度だった。全然らちがあかないので、下調ということで警察の方へ廻され、演武場で皮のバンドでなぐりつけた。みんな、体中はれあがってしまった。
裁判もいいかげんだった。殺人罪ではなくて、騒擾罪ということだった。刑を受けたのは何人もいたが、ほとんど執行猶予で、つとめたのは三、四人だったと思う。私も証人として呼ばれたが、検事は虐殺の様子などつとめてさけていたようで、最初から最後まで、事件に立合っていた私に何も聞かなかった。そして、安藤刑事部長など私に本当のことを言うなと差しとめ、実際は朝鮮人半分、内地人半分だったと証言しろ、それ以上のことは絶対に言うなと私に強要した。私も言われた通り証言した。
私は大正十五年まで本庄署にいたが、事件の真相を尋ねに来た人には皆同じこと(内地人半分)を言っていたのをおぼえている。私はいろいろ町会から表彰されたが、最初はすべて県からそれを押さえられてしまった。理由は事件があったことがわかってしまうからということだった。私は後に金時計を四個も貰った。神保原での死体処理も私がやったのだ。それから検事に呼ばれたとき「熊谷は本当は五十七人らしい」というのを聞いている。
朴慶植/著 未来社「朝鮮人強制連行の記録」P-234〜239より引用。原典は「日朝協会埼玉連合会『埼玉県内における関東大震災朝鮮人虐殺事件資料』1963年」とのことです。
その後、朝鮮人のジャーナリストも調査を開始しました。「独立新聞社」の特派員も、激烈な憤りを込めて調査結果を報告しています。
金希山 先生前
先生と別れた私達は、千辛万苦して十日目に、やつと焦土化した倭京に着き、各々、確かと責任分担した地方に散つてゆきました。
ですが、先生も想像がお出来のように、詳細に調査完了するには、極めて困難があります。従いまして、秋も過ぎ、白雪粉々たる今になつて、やつと各地の報告を綜合して、第一次として、大網を記送致しますから以上より詳しいものは、次の便をお待ちになつて、ひと先づは胸のつかえをお解きになるようお願いします。
果たせる哉、私たちの生活は甚だ不自由で、定処なく、通信も不便で、長報告の時間と便宜もないので、これを深諒されるよう願います。
先生!敵京の惨酷なる「ざま」は、憐れむ可きと云うよりも、賀す可きであります。
奴等が吾が同胞を虐殺したことを考えると、怒りで歯ぎしりがで、敵土が全滅しなかったことだけが恨まれるのです。
先生!だが私は血が沸立ち、肉が踊り、胸の動悸は激しく、涙が顔面を覆い、筆を執つてこれを書くことを敢えてなし得ません。
これを見る吾が同胞中の誰が、そうでない者がありますでしょうか。
到る処の、苗束のような屍を見れば胸は痛み、両の眼で、焼け残った肉の跡を尋ねては、身体が震えました。
嗚呼!天地は際限があるとしても、吾々の積り積つた怨恨たるいつかや、はらす日があるだろうか。哀哉。この冤讐をはらす者は誰であろうか。
空山明月夜三更に、杜鵑が哀しくなけば、7千の吾が同胞達の孤魂を思い出すべきでしょう。
糠雨が止むことなく降り、稲妻が光り、真暗で静かな悔日の夜、遠くで響くかみなりを聞いたならば、倭地で冤魂となつた7千、否、7千よりもっと多い魍魎の哀哭なのだと思つて下さい。
嗚呼、春の風、秋の雨が、これから幾度来るのか。唯、願うことは、吾々の一片丹心だけであります。
報告
被殺地 被殺人数
亀戸 100人
小松区内 27人
亀戸停車場前 2人
大島六丁目 26人
同 七丁目 6人
大島八丁目 105人
小松川附近 2人
三戸地 27人
三戸地附近 32人
亀戸警察署演武場 36人
向島 43人
寺島請地 14人
平川 7人
清水飛行場郊 27人
八千代 3人
?島署内 14人
月島 11人
深川 4人
埼玉県北葛町 稲村大字幸房 17人
品川停車場前 2人
茨城県東那須野 1人
宇都宮 3人
埼玉県芝公園 2人
埼玉県熊谷 60人
〃 本庄 63人
千葉県船橋 37人
〃 法典村、塚田村 60人
〃 南行徳 3人
〃 流山 1人
〃 佐原 7人
〃 馬橋 3人
群馬県藤岡警察署 17人
埼玉県寄居 13人
埼玉県妻治 14人
東京府下 1人
世田谷 3人
府中 2人
千葉市 37人
成田 27人
浅草 80人
埼玉県神保原 25人
赤羽巌淵 1人
埼玉県大宮 1人
荒川付近 100人
波川 2人
我孫子 3人
長野県界 2人
荒川 17人
馬橋 3人
千住 1人
神奈川県 1795人
合計 3240人
(以上は屍体を探せなかった同胞)
以下の記録は屍体を発見した同胞だが、その数1500に達するが、私(特派員)が実際に見たのは1167人、残余333人は、所在調査中
発見場所 屍体数
神奈川県浅野造船所 48人
神奈川警察署 3人
土方橋から八幡橋 103人
山手本町立野派出所 2人
本牧 32人
若屋別荘 10人
根岸町 35人
山手町埋地 1人
御殿町付近 40人
程谷 31人
井戸谷 30人
新子安町神奈川駅 150人
神奈川県鉄橋 500人
久良岐郡金沢町 123人
川崎 4人
戸部 30人
水戸上鴨田 30人
東海道茅ヶ崎町駅前 2人
鶴見 7人
久保町 40人
津間町 40人
習志野営林巌 13人
合計 1167人
以上累計 4407人
上記の第一次調査を終了した11月25日に再び各県から報告が来た。
被殺地 被殺人数
東京府 752人
神奈川県 1052人
群馬県 17人
茨城県 5人
千葉県 133人
埼玉県 293人
栃木県 4人
以上累計6661人
大韓民国5年11月28日
血涙の中で ○ ○ ○ 上
独立新聞社金希山先生前
みすず書房「現代史資料6 関東大震災と朝鮮人」P-338〜341より引用。原典は「愛国同志援護会編「韓国独立運動史」とのこと。
「茨城県東那須野」という誤りや合計の人数が合わない部分もありますが、この資料集では全て原典のまま収録されています。
なお、「日本帝国主義の朝鮮支配 上」(朴慶植/著 青木書店)P-342〜346にも同じ報告書が紹介されていますが、表現が異なる部分が多数あります。別々に翻訳されたと思われます。
ほんとにあったの?
真似したんじゃないの?
朝鮮人が。
なんて疑いを持つのはいけない事なんでしょうかね。
都合の悪いソースや最初から決めつけてた結果と反するソースを誤報とレッテルを貼れば、
そりゃあ貴方が最初から『そうあるべき』と決めつけていた結果が立証(笑)されるのは当然でしょうに。
誤報の根拠は全て自称被害者や自称加害者の証言。
対して、不定朝鮮人の悪行の根拠は公的文書や新聞記事。
さぁて、確度が高いのはどちら?
ああ、すみません。
貴方にとっては、こんな記事を書いちゃう位確度よりも自分の願望こそが証明には大事なんですよね。
歴史資料集/関東大震災
【実録】 関東大震災 不逞鮮人暴徒化
http://naver.uwakina-honeypie.com/index.php?%CE%F2%BB%CB%BB%F1%CE%C1%BD%B8%2F%B4%D8%C5%EC%C2%E7%BF%CC%BA%D2
と言うか、不逞朝鮮人以外は政府が保護するように通達してるんですよね。(ソースは上のアドレス参照)
貴方にとっては
上のアドレスに示されている多数の朝鮮人の暴虐を示す新聞記事は
偏見で描かれた極悪非道な日本人による捏造って事になるんでしょうけどね。
現在、「朝鮮人が爆弾を投じた」「井戸に毒を投じた」等の当時の新聞記事がデマだったという情報はいくらでもありますが、事実だったという情報はありません。イラクの大量破壊兵器と一緒ですね(笑)。
>と言うか、不逞朝鮮人以外は政府が保護するように通達してるんですよね。
いくら通達しても、そもそも「不逞朝鮮人」の存在がデマなんだから保護しようがありませんね。
ちなみに現在、朝鮮人殺戮に軍が関与したことが明らかになっています。
資料は一次資料を編纂した、『関東大震災と朝鮮人』ですが、その巻頭の資料解説にこう書かれています。
「
資料解説
・・・
7.近衛・第一師団の行動
8.近衛・第一師団勲功具状
震災時において近衛、第一師団の行動を知ることは極めて重要である。なぜなら虐殺の主体は軍隊であり、しかもおもに虐殺の行われた9月2日、3日に戒厳配置についたのはこの師団だからである。
軍隊の虐殺をそのまま提示する資料は本書資料項目19に記載された如きもの以外は恐らくありえないと考える。したがって軍隊による虐殺の追求は彼等の行動記録と他の資料を操作する以外にない。
資料は東京震災録所収近衛、第一両団の行動一覧表から朝鮮人関係のみを抜粋したものであるが、文中「鮮人掃討」、「鮮人鎮圧」なる用語が不用意に洩されていることに注意されたい。元来掃討、鎮圧などが軍隊用語として使用される場合の表現範囲、内容はかなり限定されるものであり、敵対行為の結果とみてさしつかえない筈である。
次に当時の見習士官であった越中利一氏の回顧録を掲げてみよう。
「関東大震災のときに、東京を中心に出動した軍隊の総数がどのくらいだったかははっきりしていない。しかしいま記憶にある連隊の名だけでも、麻布1連隊、同3連隊、騎兵1連隊、世田谷輜重兵連隊、佐倉歩兵57連隊、津田沼鉄道連隊、その他地方から一、二の連隊、工兵、憲兵隊をかぞえることができる。
とにかく市内の連隊はもちろんのこと、東京周辺はたいてい戒厳令勤務に服したのであった。そして「敵は帝都にあり」というわけで実弾と銃剣をふるって侵入したのであるからなかなかすさまじかったわけである。
ぼくがいた習志野騎兵連隊が出動したのは9月2日の時刻にして正午少し前頃であったろうか。とにかく恐ろしく急であった。人馬の戦時武装を整えて営門に整列するまでに所要時間僅かに30分しか与えられなかった。
二日分の糧食および馬糧、予備蹄鉄まで携行、実弾は60発。将校は自宅から取り寄せた真刀で指揮号令したのであるからさながら戦争気分! そして何が何やら分からぬままに疾風のように兵営を後にして、千葉街道を一路砂塵をあげてぶっ続けに飛ばしたのである。
亀戸に到着したのが午後の二時頃だったが、罹災民でハンランする洪水のようであった。連隊は行動の手始めとして先ず、列車改め、というのをやった。
将校は抜剣して列車の内外を調べ回った。
どの列車も超満員で、機関車に積まれてある石炭の上まで蠅のように群がりたかっていたが、その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れていった。日本人避難民の中からは嵐のように湧きおこる万才歓呼の声、国賊! 朝鮮人は皆殺しにしろ! ぼくたちの連隊は、これを劈頭の血祭りにして、その日の夕方から夜にかけて本格的な朝
鮮人狩りをやりだした。」(日本と朝鮮、1963年9月1日号)
(途中省略)
一つの挿話がある。当時兵隊は飯ばかり喰って、おかずの魚は喰おうとしなかった。なぜならば、東京湾に流し捨てられた朝鮮人の死体をくっているからイヤだ、というのである。
清水幾太郎氏は同じようなことを目撃している。市川の兵営の洗面所のようなところで、
「兵隊たちが銃剣の血を洗っているところです。誰を殺したのかと聞いてみると、得意げに朝鮮人さと言います」(「私の心の遍歴」)
その一方、証言など状況証拠は軍隊による大がかりな虐殺を示しているので、研究者たちはこの問題を長い間追い続けてきました。
その証拠になる貴重な資料も見つかりました。
『関東大震災>朝鮮人ら虐殺で新資料見つかる−−東京都公文書館』
毎日新聞ニュース速報、97年1月19日
「1923(大正12)年9月1日の関東大震災直後、6000人以上の朝鮮人らが虐殺された事件に関連し、当時の陸軍省関東戒厳司令部が極秘にまとめた兵器使用の調査表が東京都公文書館に保管されていることが19日までに分かった。朝鮮人を中心に約280人の虐殺について実行部隊、兵器使用者、殺害方法などを詳細に記録しており、専門家は「これまで朝鮮人虐殺には不明な点が多かったが、軍の行為を明確に裏付けた貴重な資料」と評価している。
調査表は「震災後警備ノ為(ため)兵器ヲ使用セル事件調査表」と題され、漢字と片仮名で武器を使用した20件を記録している。
このうち12件は朝鮮人が犠牲者のもの。陸軍の騎兵連隊などが震災直後から6日午前7時半ごろにかけて東京・両国橋西詰付近や千葉県浦安町役場などで朝鮮人計252人を銃剣で射殺したり、こん棒で撲殺したことを記している。
事件概況と備考の欄では朝鮮人らが爆弾らしいものを投げようとしたり、群衆や警官と争いになったため「自衛上止(や)ムヲ得ズ射殺」などと記載している。また20件の中には東京都江東区の亀戸署内で社会主義者の平沢計七ら10人が虐殺された亀戸事件も含まれており、この事件も「中尉ハ事情已(や)ムヲ得サルモノト認メ警備中ノ下士卒ニ命ジ全部之(これ)ヲ刺殺セシメタリ」と説明している。
松尾章一法政大教授(日本近現代史)の話
この調査表の内容は、軍が自分たちの行為は、朝鮮人が暴動を起こしているため不可抗力であるなどと正当化するものだが、それが皮肉にもこれまで不明な点が多かった軍の関与を明確に示す記録となっている。軍の虐殺行為を裏付ける貴重な資料だと考える」
新聞記事なら確度が高いんですよね?(笑)さぁて、確度が高いのはどちら?
それにしても、当時のデマを鵜呑みにしている「マイケル」の愚かさには哀れみを感じます(笑)
朝鮮人が爆弾を使ったって?そんなものどこからもってきたのでしょうか(笑)
それに新聞記事だから信用できる、みたいなことを書いてますが、だったらいつも「マスゴミはウソばかり」と主張する自分らネトウヨの立場はどうなるんでしょうか(笑)
まあコイツらに常識は通じませんが。
歴史を捏造しているのも韓国側の方だと思っている。強制連行も信じていない。
でも、関東大震災に於ける朝鮮人の虐殺はあったと思っている。
そして「朝鮮人が爆弾を投じた」「井戸に毒を投じた」などというのも根拠が無いからデマだとしか考えられない。
いくら相手が不愉快な国でもこれについては真実なのだから認めるべきだ。
多少大げさな表現はあるだろう。だが、虐殺があったのは事実だ。
気に入らなくても事実は事実。現実逃避は良くない。
相手の主張が間違っていたら、簡単に謝らずにきちんと反論する。
相手の主張が正しければ、無理な事は言わず、素直に認める。
真っ当な愛国者なら、そうするべきだと思う筈だ。
辛いとは思うが、でたらめな事を主張して恥をかくよりはマシだろう。
詳細をお教え願います。
以下のページの記述は不正確と言うことでしょうか?
wikipedia 関東大震災
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD
「迫害の標的にされた当の朝鮮人の犯罪は、殺人2名、放火3件、強盗6件、強姦3件であった。」
関東大震災の報道検証
http://www.jca.apc.org/~altmedka/sinsai.html
「【朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局者として誠に面目なき次第です】」
資料 関東大震災人権救済申立事件調査報告書 日弁連
http://www.azusawa.jp/shiryou/kantou-200309.html
【そもそも、朝鮮人が放火、爆弾所持・投擲、井戸への毒物投入等の不逞行為をおこなっているという喧伝は、客観的事実ではない流言飛語であった。少なくとも、各所で多数のそうした行為が行われたり、組織的な行為が行われたという形跡はない。これが流言飛語であったことは、以下のとおり当時の警察文書の記載からも明かな事実である。
例えば、警視庁編 『大正大震火災誌』(資料第1の1『現代史資料(6)』39頁以下) は、「鮮人暴動の蜚話に至りては、忽ち四方に伝播して流布の範囲亦頗る広く」 「流言蜚語の、初めて管内に流布せらりしは、9月1日午後1時頃なりしものの如く、更に2日より3日に亘りては、最も甚しく、其種類も亦多種多様なり。」(同 39頁) と記載し、以下時々刻々の流言飛語の状況と内容を摘示し、その取締状況と朝鮮人保護の状況に至るまで詳細に記録している。これは、鮮人暴動・不逞行為などの言説がおよそ客観的事実にもとづかない流言であったことを直截に物語るものである】
「暴動」と言うからには、少数の人間によるものではない筈ですね。
どこで発生し、どれくらいの人数が参加したのでしょうか。
軍隊等が沈静化したそうですが、鎮圧にあたった部隊はどこでしょうか。
指揮官は誰でしょうか。
また、鎮圧されているからには、複数の逮捕者も出ていますね。
裁判にも掛けられていると思います。
その公式記録は残っているのでしょうか。
誤報だらけの当時の新聞記事以外のソースをご教示願えましたら幸いです。
ネットで調べたり、図書館に聞いたりしましても、なかなか決定的なものが発見出来ませんで。
被害人数の多かった大島町事件は、そもそも中国人ですし、この件も不当な虐殺だったようですしね。
と言ってコイツが上げた
>歴史資料集/関東大震災
【実録】 関東大震災 不逞鮮人暴徒化
>http://naver.uwakina-honeypie.com/index.php?%CE%F2%BB%CB%BB%F1%CE%C1%BD%B8%2F%B4%D8%C5%EC%C2%E7%BF%CC%BA%D2
に出ている、暴動云々を載せた新聞の一つ、福岡日日新聞の後身の、西日本新聞は現在この当時の記事は「誤報だった」見解を示している。嘘だと思うなら直接問い合わせてみるんだな。
>ついでに言うと、当時はこう言う事件がございました。
それを報じた新聞社自身が「誤報だった」としている記事を出して「ございました」かw
アホだコイツw
それともコイツは報じた新聞社よりも「誤報」の記事の方が絶対に正しいとでも言うのかw
>横浜で戦闘開始 日本陸軍一個小隊全滅
とあるんだけど……
この記事の気になる所は、不逞鮮人と日本陸軍が衝突して「日本陸軍一個小隊全滅」したわけだけど
何処の部隊?さらに、増援として歩兵一個中隊が送られてきたそうだが、何処の部隊だ?
国や部隊の役割で増減するけど何ともいえませんが、歩兵小隊は30人から40人程度、歩兵小隊は150人
から200人位です。これだけの人数を動かすのに、軍上層部の許可なしに動かせますか?そんな事した
ら派遣した部隊の上の人達は「管理責任」を問われて処分されます。
また、日本陸軍一個小隊は何処で不逞鮮人と衝突したんですかね?戦国時代や幕末など国内で起こった
戦闘はたいてい正確な場所が分かっているのに、分かりませんじゃすまないんですよ。