2005年07月31日

今でも日中両国民を苦しめ続ける日本の毒ガス兵器

 (7/29朝日朝刊の、web上に載らなかった記事より引用、及び8/28大幅に書き足し)
 2003年8月、中国黒龍江省チチハル市の地下駐車場建設現場から、旧日本軍が遺棄した「イペリット(マスタードガス)」が偶然掘り起こされ、1名が死亡、43名が健康被害を受けた。
その建設現場の盛り土の上で遊んでいた馮佳縁さん(13歳、当時は多分11歳)は、夕方から目が赤くなり、足に裏に水ぶくれができた。
退院後も目の痛みと視界がかすむ症状が残る。昨年末には突然足の爪が黒くなり、「私、結婚できるの」と母親にたずねたという。イペリットガスによって受けた症状の根治は難しいという。
日本政府はこの事件後、中国政府に毒ガス処理のため3億円を支払った。しかし被害者個人への補償は行わない方針である。馮佳縁さんら被害者代表7人は日本政府に謝罪と医療体制の整備を求めるため7/29来日予定とのこと。

 (以下は「毒ガス戦と日本軍」吉見義明/著 岩波書店 より引用)
 第一次世界大戦でドイツ・イギリス・フランス・アメリカ・ロシアなどは毒ガス兵器を大規模に使用し、100万人以上の死傷者を出したという。1900年の「毒ガスの禁止に関するハーグ宣言」は、「窒息せしむべき瓦斯又は有毒質の瓦斯を散布するを唯一の目的とする投射物の使用を各自に禁止す」と定められていたが、ドイツ軍は「投射物」(爆弾・砲弾など)を用いずに直接ボンベから放出するという「抜け道を利用し」、これによって各国が毒ガス合戦を始めてしまった。
 (驚くべきことにロシア革命軍も、国内の反革命派に対して毒ガスによる虐殺作戦を行なった。1921年、「黒海地方タンボフ県」の大規模な農民反乱に対して、革命軍の司令官は「匪賊が隠れている森林は毒ガスで浄化される。その際、毒ガスの雲が森林全体に広がって、隠れているものすべてを皆殺しにするよう注意深く準備するものとする」という命令を発したという(P-7)。ロシア革命戦争に於ける住民に対する殺戮作戦は、反革命勢力の「コルチャーク軍」やシベリアを侵略していた日本軍だけが行ったわけではないのである)
 日本もこの時期に毒ガスの開発に着手したが、シベリアからの撤退に伴い中止された。しかし1925年の国際連盟の軍縮会議後に再開された。列強が足並みを揃えた軍縮によって日本軍も大幅に人員を整理し、浮いた予算によって航空機・戦車など第一次世界大戦で脚光を浴びた兵器の開発に振り向けることができた。その中に毒ガスも含まれていたのである。
 (ちなみに1925年のジュネーブ国際会議にて毒ガス・細菌兵器の使用を禁止する議定書が採択されたがアメリカは批准しなかった。アメリカの出方を窺っていた日本も口先は使用禁止を唱えつつも批准することはなかった)
 そして日本はドイツから研究者を招いて開発した毒ガスを「あを一号」「みどり二号」などと命名し、中国大陸だけでなく東南アジア、南洋諸島でも使用した。(馮佳縁さんが被害を受けたイペリットガスは「きい一号」と呼ばれた「糜爛性」ガスで、皮膚や粘膜をただれさせ呼吸器や視覚を侵すという)

・・・たとえば八路軍の攻勢に恐怖した日本軍が苦し紛れに開始した「燼滅作戦」(つまり三光作戦)でも、毒ガス弾は多用された。
 1940年8月、八路軍の「百団作戦」に痛めつけられた北支那方面軍が指示した「第一期晋中作戦復行実施要領」は、「殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす」三光作戦以外の何物でもなかった。
 その中で、「第三十六師団山形歩兵第二二四連隊第二大隊を基幹とする永野支隊」は、八路軍の猛攻撃を受ける中で「きい弾」と呼ばれる糜爛性ガス弾や、「あか弾」と呼ばれる嘔吐性ガス弾を大量に使用した。そして「反転」(要するに退却)の際には、附近の「輝教」という集落を「毒化」・・・つまり徹底的に毒ガス弾で汚染・壊滅させたという。要するに敵軍と交戦中に毒ガス弾を用いるだけでなく、逃げ落ちる際にもイタチの最後っ屁の如く周囲の村民を虐殺したのである。
 その後も北支那方面軍は八路軍の根拠地を根絶するため毒ガス弾を多用した。防衛庁防衛研究所が昨年公開した「歩兵第二二四連隊 冬季山西粛正作戦戦闘詳報 其一」(1942年)では、「撒毒地」(毒ガスの標的とする村落)が指示されていた(P-197〜198)。河北省の魯家峪や北坦村では、洞窟や地下壕に潜んだ八路軍の兵士や「一応敵性を有する」村民を毒ガスで全滅させた(P-202〜209)。三光作戦という民族浄化計画に於いて、毒ガスの使用は最も効果的であると考えられていたことだろう。

・・・1945年8月9日、ソ連軍は突如偽満州国に侵入した。ハルビン郊外で人体実験を繰り返していた七三一部隊は自分たちの所業の一切を隠滅するために「丸太」を全て「処分」し、全施設を爆破焼却し、あわただしく逃亡を開始した。この部隊が行っていたことがソ連に知れれば自分たちがどんな裁きを受けるであろうか、よく理解していたことだろう。
 これと同様なことは毒ガス弾を保持していた各地の部隊も行った。日本軍も毒ガス兵器の非人道性と、それを使用していたことが国際社会からどのような追及を受けるか認識していたのである。
偽満州国の関東軍は化学兵器をほどんど使用していなかったため、大量に残存していた。終戦とともに「海・河・地中・古井戸」などに投棄、余裕がない場合弾薬庫に放置した。吉林省の敦化の第十六野戦兵器廠は、黒龍江省の石頭に集積した弾薬の爆破のため8月11日に兵士三名を派遣した。彼らは15日から「化学戦弾薬だけ埋没を開始したが、武装解除迄完了しなかった」という。また敦化の各地ではソ連軍の侵攻に処分が間に合わず、弾薬庫に放置したままだったという。
 支那派遣軍は、国民政府軍に武装解除されるまで関東軍と同様に投棄した。たとえば「第十一軍直轄自動車第三十四連隊のある将校」は、8月20日に「湖南省湘潭県滴水埠で停戦命令」を受け、地区司令部からの命令で一切の書類と毒ガスの処理を命じられ、湘江に毒ガス弾入りの箱を20箱捨てたという。(P-283〜286)
 こうして遺棄された毒ガス弾は戦後長い間忘れ去られていたが、1990年中国政府からその処理を要求され、政府は翌年から現地調査を開始した。

 (以下は外務省のサイトより)日本は、1997年に発効した「化学兵器禁止条約」に1993年1月署名し、1995年9月に批准している。
 これには、
 「締約国は、老朽化した化学兵器及び他の締約国の領域内に遺棄した化学兵器も廃棄する(第4条)」
という条文がある。日中両国は1999年7月この条約に従い、
1.両国政府は、累次に亘る共同調査を経て、中華人民共和国国内に大量の旧日本軍の遺棄化学兵器が存在していることを確認した。旧日本軍のものであると既に確認され、及び今後確認される化学兵器の廃棄問題に対し、日本国政府は「化学兵器禁止条約」に従って遺棄締約国として負っている義務を誠実に履行する。
2.日本国政府は、「化学兵器禁止条約」に基づき、旧日本軍が中華人民共和国国内に遺棄した化学兵器の廃棄を行う。上記の廃棄を行うときは、日本国政府は化学兵器禁止条約検証附属書第4部(B)15の規定に従って、遺棄化学兵器の廃棄のため、すべての必要な資金、技術、専門家、施設及びその他の資源を提供する。中華人民共和国政府は廃棄に対し適切な協力を行う。
 このような覚書を交わした。日本政府は中国に遺した毒ガス兵器を処理する義務を負ったのである。
 ところで、
「日本は敗戦に伴い武装解除され、全ての兵器を戦利品として国民党政府に引き渡したのだから、もう責任はない。ズサンな管理をしていた共産党政府が悪い!」
 という主張もそこかしこに見られる。なるほどたしかに武装解除された後は毒ガス弾を持ち帰ることも(んなこと出来るわきゃねえが)、処理することも出来なかっただろう。また、上述のように戦時中の日本は毒ガスの使用を明確に禁じる条約に批准していたわけではなかった。
 しかし現実、日本政府は毒ガス兵器を処理する約定を交わしている。侵略戦争に伴い非人道的な兵器を用いて敵兵・民衆を虐殺し、さらにその兵器が(経緯は様々あれ)未だ大量に当時の敵国内に残存しているという現状に対し、上の青文字部分のような屁理屈で拒否できるほど、日本政府は恥知らずではなかったようである。

 ところで上の覚書には日本軍の毒ガス兵器によって健康被害を受けた人々への補償は一言も記されていない。しかし日本には、充分な治療と補償を行うべき、道義的責任があると言えよう。

・・・馮佳縁さんは昨年から、茨城県神栖町で旧日本軍の毒ガス兵器の被害を受けた少女と文通を交わしている。最近「自分の力で読みたい」と、日本語の勉強を始めたという。馮佳縁さんが健康を取り戻し、学業に励み、そして将来佳き縁に恵まれることを願う。
posted by 鷹嘴 at 01:36 | TrackBack(0) | 戦後補償 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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