連合、石綿規制法案に反対 「雇用不安」理由に94年
2005年08月05日07時20分
旧社会党が92年から、アスベスト(石綿)製品の製造、販売などを原則禁止にする「石綿規制法」の成立を目指した際、石綿建材メーカー8社の労働組合が反対し、連合も事実上反対したため、94年秋に法制化を断念したことが分かった。連合は「急な規制は雇用不安を招く」と懸念。同時期に、石綿使用禁止の方針を取り下げていた。国の石綿対策の遅れが指摘されているなかで、労働界も危険性を軽視していた格好だ。
法案は、80年代後半に校舎などへの石綿使用が問題となった「学校パニック」がきっかけ。国は、71年に危険な化学物質の取り扱いを規制する規則の対象に石綿を入れるなど危険性を認識していたが、通達での指導に終始していた。
このため、市民団体が法律での規制を求めて約63万人の署名を集め、社会党は五島正規衆院議員(現民主党)を中心に、議員立法を目指した。
法案の柱は、(1)青石綿、茶石綿を使った製品の製造、販売の禁止(2)代替品使用の促進(3)学校、病院の石綿除去に対する補助、などだった。
社会党は92年12月の臨時国会に、法案を提出。佐川急便事件の混乱に加え、石綿建材メーカーなどでつくる「日本石綿協会」が労働環境は以前より改善されているとして「今後は健康障害は起こり得ない」などと主張、自民党の賛成も得られず廃案になった。その後も、社会党は法案の再提出を目指していた。
これに対し93年春、メーカーの労組が、法制化に反対する「石綿業にたずさわる者の連絡協議会」を結成。ニチアス、日本バルカー、クボタ小田原、ノザワ、三菱マテリアル建材、ウベボード、浅野スレート(現・エーアンドエーマテリアル)、アスク(同)の各労組が参加した。
協議会は、社会党議員らに反対を陳情。5月18日付の要請書によると「石綿は管理して使用できる。規制法制定は、関連産業に働く者の生活基盤をも奪いかねない」などとしていた。
当時のニチアス労組委員長の高田典雄さんは「企業の自主規制が進んでおり、被害はこれ以上でないとの意見が強かった。法規制されれば、代替品開発が遅れていた中小企業が大打撃を受ける心配があった」という。
社会党は、再提出を目指し連合に協力を要請。94年1月に、連合の作業部会がまとめた資料によると、連合は「個別物質の単独立法が、法体系になじまない」との見解を示した。同年9月、社会党は連合と協議し、法制化を見送り、労働安全衛生法の規制を強化することで合意した。
連合は、同時期に「石綿使用を早期禁止する」としていた方針を変更。94年5月には「使用削減・使用制限への取り組みをすすめる」として、禁止から管理使用へと転換した。連合によると、01年まで石綿の使用禁止を方針に盛り込んでいなかった、という。
当時の連合の担当者は「規制強化も大切だが、雇用を守る必要があった」と振り返る。
連合雇用法制対策局は「もう少し早く、石綿禁止を打ち出すべきだった」という。立法化の中心だった五島議員は、連合が法制化に消極的と認識。「社会党は法制化から降りろという意味に受け止めた。党はやむなくのんだ」と話している。
このように労働者自身が自分たちを守る為に組織しているはずの組合が、アスベストの恐ろしさを認識していなかったのである。被害を蒙る側の認識の甘さが被害の拡大を許してしまった事例はこの件だけではない。
・・・たとえば、チッソの労働組合は当初、自社の工場の廃液が水俣病の原因であることを認めなかった。(注)
このような患者のせっぱつまった行動(1959年、チッソの工場前で補償を求めて座り込み)に対して、工場労働者も市民も、漁協ですら、患者たちには冷たかった。チッソ労働組合ですら、従業員大会で「水俣病の原因未確定の現在、工場の操業停止には絶対反対。われわれは暴力を否定する。工場を暴力から守ろう」などと決議した。また、市長、市議会議長、商工会議所、農協、チッソ労組、地区労と共同で「工場廃水をとめることは工場の破壊であり、市の破壊になる」と寺本知事に要望し、県警には「暴力行為に十分な警備をすること」を要望したりするのである。しかしチッソの社員にも水俣病を発症した者がいることが後に明らかになる。
(原田正純/著「水俣病」岩波新書B113 P-60)
また地元住民の中にも、水俣病患者に対して冷ややかな反応をする者がいたようである。以下は「水俣病事件四十年」(宮澤信雄/著 葦書房)より引用。
患者家族はみな貧しく、治療費・入院費など出すことができなかった。しかも、奇病はうつるという恐れから、ほかの入院患者が恐慌をきたしてもいた。そこで、細川・伊藤らは、奇病は擬似日本脳炎ということにして、伝染病隔離病舎に収容することを思いついた。伝染病なら一切が公費でまかなわれて、患者の負担にならないからだ。ところが、7月下旬にとったこの措置が、奇病は伝染するという印象を強めてしまった。さらに、患者の出たまわりや共同井戸などをくりかえし丹念に消毒したので、奇病に対する恐れがつのり、患者家族に対する迫害差別が激しくなった。奇病が出た家では共同井戸を使わせてもらえず、夜遅くひそかに、あるいは遠くまで水を汲みに行った。子供は仲間はずれにされ、家族は雨戸をしめて閉じこもるなどした。(P-106)
患者家族は座込みを続ける以外になかった。追いつめられ、孤立した人達の座込みであった。通りがかりに「奇病」と言ってそっぽを向く人、唾を吐きすてて行く人もいた。彼らは市内でデモをし、市や市議会の冷たさに抗議し、熊本県にでかけて補償斡旋に加えてくれるよう県庁前に座り込むなど必死だった。街頭カンパでは思ったより金が集まり、同情する市民がいることも知った。(P-269)
水俣病患者審査協議会の設置は、チッソと水俣病患者家族とが見舞金契約を結ぶ直前に決まった。水俣病の加害責任を認めないチッソにとって、見舞金は気の毒な隣人への涙金にすぎなかった。結果として被害者は、地域に君臨する会社への反逆者であり、会社から金をせびりとるものとみなされ、差別・迫害を受けた。「奇病になって金ばもろうてよかね」などという言葉が、患者家族にあびせられた。奇病そのものの恐ろしさもあって、人々は水俣病であることを隠そうとした。(P-281)
この恐ろしい公害病に関心を持たず、被害者に冷たい仕打ちをした住民たちは、自らも水俣病患者となり得る可能性など想像もしなかったのだろう。
こんなこともあった。ある患者の家で、私はたまりかねて、どうしてこんなにひどいのに、10年も放っておいたのかとその妻に聞いた。その妻は畳に頭をすりつけ、悪るうございました、すみませんでしたとあやまるのである。あとになって、その意味がわかった。それは三十四、五年ごろ、当時認定された患者さんたちに対して、その妻は、「水俣病はよかねえ、寝とけば金がもらえる」などといやがらせを言って、よく患者家族を泣かしたのである。かつて加害者であった人が、いま、逆に被害者となった。なんと悲しい、現代版いじわるばあさんの物語だろう。(「水俣病」P-171)
薬害エイズ、水俣病、アスベスト被害など近代工業がもたらした災厄が密かに進行している際、我々はいつ自分が犠牲になるとも知れぬ立場に係わらず、その害悪に無関心かつ無理解であることが多いようだ。ところでアスベストの問題は薬害エイズや水俣病とは異なり日本国民全体に関わることであり、今後我々は今までの無関心のつけを払わされることになるだろう。
注:もっともチッソの労組は後にこの態度を改める。1973年8月、チッソは「水銀母液100トン」を韓国に輸出する計画を立てるが、チッソ第一組合はこれを阻止した。
その後この組合は定期大会で「なにもしてこなかったことを恥とし、水俣病と闘う」ことを決議したという。(「水俣病」P-106)