非常に遅くなってしまってみっともないが当日の模様などをダラダラと書いてみる。
12月3日に九段会館で、「沖縄戦教科書検定意見撤回を求める全国集会」(主催:東京沖縄県人会)が行われた。渡嘉敷島で発生した「集団自決」の生存者である沖縄キリスト教短期大学名誉教授の金城重明さん、各界の学識者の方々、そして教科書執筆者の方々が出席し、沖縄戦の記述に対する不当な検定意見の撤回を訴える集会である。今年4月岩波セミナーホールで行われた集会では金城先生が証言するビデオが上映されたが、この集会は金城先生の証言を直に聴けるチャンスだったのである。衆議院議員の照屋寛徳さん(社民党)、笠井亮さん(日本共産党)、沖縄知事選にも出馬した参議院議員の糸数慶子さんら3人の国会議員も来場していた。
以下に金城さんのお話の要約と、個人的な感想を記す。
1945年3月27日、渡嘉敷島にアメリカ軍が上陸し、その翌日の3月28日に集団死が発生した。日本軍は機密保持と住民とアメリカ軍の接触を防ぐ目的で、住民に対し夜間に、集落から7kmも離れた日本軍陣地近くまで移動するよう命令した。そこで集団死が発生したわけだが、金城さんは「もしも自発的な死だったら、自分の家や代々の墓の前で死ぬだろう」と指摘する。
すでに軍は島の十数名の男性に、2個づつ手榴弾を配っていた。「一つは攻撃用、一つは自決用」だと説明されていたという。「皇軍」が「天皇陛下」から預かった兵器を民間人に配ること自体がただならぬ異変だったのである。
当時の村長の古波蔵椎好さんも住民と共に避難していたが、吉川勇助さんという人が村長の元に歩み寄り、「命令が出ましたよ」と報告し、村長は「天皇陛下万歳!」と三唱した。これは戦闘に勝利した場合、あるいはこれから「玉砕」する際に発する言葉だった。つまりこれから「自決」するぞ、という号令だったのである。
金城さんは当時16歳で、家庭は貧しく進学は出来なかったが「生きて虜囚の辱めを受けず」と説く「戦陣訓」は暗記していた。死ぬ構えは出来ていたという。
一段高い所から大人はどのように「自決」するのだろうと観察していると、区長だった金城さん(金城さんの親戚)は、木の枝をへし折り、妻子を滅多打ちにした。「自決」のお手本を見せたのである。金城さんも兄と二人で、母の頭を石で叩いた。それから弟と妹にも手をかけた。同級生の女の子にも手をかけたが、手加減してしまったのか殺しきれなかった。愛する家族に対してこそ、確実に命を奪っていたのである。
戦時中国民は、アメリカ軍に捕らえられると男は惨殺され女は陵辱されると信じ込まされていた。そもそも敵軍への投降は許されることではなかった(この島では日本軍による住民虐殺事件も起きている)。島民にとって、この状況で生きていること自体が恐怖だったのである。
自分も兄と一緒に死のうとしたが、友人に誘われてアメリカ軍に斬り込みに行くことにした。しかし生き残っていた日本兵を見てその気は失せた。「どうして日本兵が生きているのか?」と「恨み骨髄」に達したという。多くの島民たちが集団死に追い込まれた中、指揮官の赤松嘉次氏を初めてとする日本兵らは生き残り、戦後になってからはあろうことか自分たち軍の責任は否定しているのである。
このような凄惨な集団死が教科書に記述されるようになったのは文部省の検定意見がきっかけだという。1983年の教科書検定の際、家永三郎氏による日本軍の住民虐殺についての記述に対し、「一番犠牲が多かった集団自決を記述せよ」という検定意見が付いた。文部省は「集団自決」を「自発的な死」と解釈しているのである。これに対し家永氏は提訴したが、以降各社の教科書に「集団自決」が記述されるようになった。
同じ第二次世界大戦の敗戦国であるドイツでは、教科書の記述の可否は「学問的論拠があるか?」で判断されるという。集団死は日本軍の強制によって発生した事実を認めず、教科書を「明るい雰囲気で書け」と要求する日本の文部省は、教科書記述に対し学問としての正確さよりも政治性を優先させたいようだ。
金城さんのお話が終わり、場内は盛大な拍手に包まれた。
続いて琉球大学教授の高嶋伸欣さん、教科書執筆者の坂本昇さん、埼玉大学教授の暉峻淑子さん、早稲田大学教授の水島朝穂さんらが壇上に登った。
暉峻さんも教科書検定制度によって屈辱的な扱いを受けた一人である。1991年度の中学校用公民教科書(日本書籍)の中のコラムに、暉峻さんの著書「豊かさとは何か」から要約して引用している部分があったが、検定意見によってこのコラムは削除させられた。ある老いた女性が「福祉事務所に抗議の手紙を残して」「無理に生活保護を辞退させられて自殺した」という記述に対し、「事実関係に誤りがあるとみられ」「生活保護行政についての一面的な記述である」という意見を付けたのである。これは厚生省の社会局長の「遺書は迷惑をかけたことへのおわびとお世話になったことに対する謝意につきており、直接の死因は環状動脈硬化症による病死と推定されている」という、国会答弁を論拠にしたという。
しかしその女性の死因が自殺だったことも、福祉事務所からの仕打ちも事実であり、「恨みの手紙」も存在する。この国会答弁は全くの虚偽を述べたものだった。自分の取材を誤りと決め付けられた暉峻さんは激しく抗議し、国会議員の手助けによって文部省の担当課長との面会を取り付けた。
「恨みの手紙」のコピーを見せ付けても、国会答弁を楯に検定意見の誤りを認めない相手に対し暉峻さんは、
「窓の外に雨がザアザア降っていても(厚生省の)局長が『晴れ』だと言えば、あなたは晴れだというのですね」
と問いかけたが、
担当課長は「そうです」と答えたという・・・。さすがに会場は爆笑に包まれた。
このようなふざけた態度にも暉峻さんはあきらめずに粘り強く追及を続けた。自殺した女性の死体検案書の開示を二度要求するも拒否されるなど困難を極めたが、ついに1996年、当時の厚生大臣(菅直人)が当時の国会答弁の誤りを文章で謝罪し、文部大臣も検定の誤りを認め謝罪の意思を表明した。
このように検定意見の誤りを撤回させるには恐ろしい労力が必要になるのである。それは現在の教科書検定制度が、必ずしも歴史の事実や社会問題の事実に即した教科書を求めているわけではないから、かもしれない。
水島朝穂さんは防衛庁資料から、終戦直前の軍部の興味深い会議録を紹介した。
「サイパンでは女性や子供も玉砕したが、本土決戦を控えてこれは国民にとって良いお手本になるのではないか?」
「しかし、死ねと命令するのは不都合である」
「玉砕して欲しいが、敵の捕虜になってしまうのもやむを得ないだろう」
このような恐ろしい会議が行われていたそうだが、この会議録を教訓として防衛庁は「国民は早めに避難させるべきだ」と結論付けたという。
どうやら防衛庁も旧日本軍と同様、「有事」の際に国民が敵軍の捕虜となってしまうのは望まないようである。軍隊とは国民の生命安全を第一に考え行動するものではなく、統治機構の(あるいは軍隊そのものの)利益を優先させるものであることがよく分かる。
最後に我らが俵義文さん(子どもと教科書全国ネット21・事務局長)が、この集会のアピール文を紹介し、「音のしないお金」によるカンパを呼びかけ(これはかなりウケていた)、会場一同で不当な検定意見を撤回させることを誓い合い、閉会した。(その後会場の外で、俵さんには申し訳ないが「音のするお金」でカンパさせていただいた)
*ところで文部科学省はこの期に及んで、「複合的な要因」による強制は認めても、軍の命令があった、という記述は許さないつもりらしい。強制だったことを認めてしまえば、命令の有無に拘っても無意味だと気付くはずなのだが。
◆Internet ZoneWordPressでBlog生活 » Blog Archive » 文科省 「軍の強制なし」は撤回せず
2007年12月11日
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