先日の大阪高裁での靖国訴訟について、読売が以下のような愚かしいコメントを寄せている。
判決は請求を棄却した。しかし、首相は「3度にわたって参拝した上、1年に1度参拝を行う意志を表明するなどし、これを国内外の強い批判にもかかわらず実行し、継続しているように、参拝実施の意図は強固であった」との判断を示した。目的は「政治的なもの」だったともしている。
近隣諸国の批判などを理由に首相の靖国神社参拝を違憲だとするなら、この判決こそ政治的なものではないか。
何を言ってるんだか。批判があるから違憲だと判断したわけではない。
首相の靖国参拝が違憲であるという判断の一つとして、批判もお構いなしに首相が参拝を続けていることが、靖国神社は政府にとって特別な存在だと知らしめたことを、指摘しているのである。
こんなこと判決要旨を斜め読みしただけで分かるはずだが?読売の記者の頭の程度はそこらのネットウヨ同然と言わざるを得ない。以下は問答有用より転載。
> この大阪高裁の憲法第20条第3項の解釈は、既に最高裁判例の出ている以下に準拠したものであろう。
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> 憲法20条3項にいう宗教的活動とは,およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく,そのかかわり合いが上記にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって,当該行為の目的が宗教的意義を持ち,その効果が宗教に対する援助,助長,促進又は圧迫,干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。
> そして,ある行為が上記にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては,当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく,当該行為の行われる場所,当該行為に対する一般人の宗教的評価,当該行為者が当該行為を行うについての意図,目的及び宗教的意識の有無,程度,当該行為の一般人に与える効果,影響等,諸般の事情を考慮し,社会通念に従って,客観的に判断しなければならない(最高裁昭和46年(行ツ)第69号同52年7月13日大法廷判決・民集31巻4号533頁,最高裁平成4年(行ツ)第156号同9年4月2日大法廷判決・民集51巻4号1673頁等)。
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> 今回の高裁判決は、
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> 小泉の靖国参拝が、靖国神社のみを特別に支援するという印象を与え、特定の宗教のみ(つまり靖国神社のみ)を助長、促進することになる。何故なら、参拝を公に宣言し、内外の批判がある中で、輿論が注視する中、3回も参拝を実行するに及んだからだ。
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> だから、最高裁判例によって、小泉の参拝は「違憲」となる、と断じているのである。
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> つまり、参拝に対する内外の批判がなく、その参拝が静謐に行われるならば、この理屈は成立しない。すなわちこの論法では、内外の「批判」があるから「違憲」、内外の「批判」がなければ「合憲」に導かれる。
> であるが故に、今回の高裁判決自身が、極めて政治性を持った、不当な判決であるという批判が起こるゆえんである。(本日の読売社説)
9/30の朝日夕刊に掲載された判決要旨を読んでみると、「内外の批判」だけを違憲の理由にしているわけではないようです。それより重いのは公的な参拝であること、毎年参拝していること(それを公約にしていること)、小泉には何らかの宗教的情熱があること、「小泉首相の発言及び談話、所感に表れた参拝の主たる動機ないし目的は政治的なものであること」(判決要旨の中の『職務行為性』)、さらに参拝の継続によって靖国神社とは政府にとって特別なものであること、靖国を贔屓しているのを世間に知らしめたこと(要するに火の鳥草さんが引用した判例に合致すること)、という判断ではないでしょうか?
そもそも批判が起こり得ないようなものだったとすれば、こんな裁判も、違憲かどうかを問う論議も起きませんよね。
読売の社説 はこれですか?
判決は請求を棄却した。しかし、首相は「3度にわたって参拝した上、1年に1度参拝を行う意志を表明するなどし、これを国内外の強い批判にもかかわらず実行し、継続しているように、参拝実施の意図は強固であった」との判断を示した。目的は「政治的なもの」だったともしている。
近隣諸国の批判などを理由に首相の靖国神社参拝を違憲だとするなら、この判決こそ政治的なものではないか。
9/30の朝日夕刊に掲載された判決要旨「違憲性」を引用します。
「宗教団体の靖国神社の備える礼拝施設の本殿で、祭神に対し拝礼することにより、畏敬崇拝の気持ちを表したもので、客観的に見て極めて宗教的意義の深い行為というべきだ。
また、本件各参拝は内閣総理大臣の職務を行うについてなされた公的性格を有するもので、小泉首相は3度にわたって参拝した上、1年に1度参拝を行う意思を表明するなどし、これを国内外の強い批判にもかかわらず実行し、継続しているように、参拝実施の意図は強固だった。以上は一般人においても容易に知りうるところだった。
これにより、国は靖国神社との間にのみ意識的に特別のかかわり合いをもったというべきで、これが、一般人に対して国が靖国神社を特別に支援しており、他の宗教団体とは異なり特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすものと言わざるを得ず、その効果が特定の宗教に対する助長、促進になると認められ、これによってもたらされる国と靖国神社とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らして相当とされる限度を越えるというべきだ。
従って、本件各参拝は憲法20条3項の禁止する宗教的活動に当たると認められる」
ついでに37103
> 憲法第20条第3項の、これまでのもろもろの最高裁判決に照らして
> 天皇が、天皇家の「私的」行事として行う宗教活動は、「違憲」には問われないわけだが、
> 天皇が、靖国神社を(今、または昔)参拝すると、これはどうなるのだ?
> この場合の「天皇」は「国または国の機関」になるのか?
> 公的「首相」の参拝の場合、内外の「批判」があるから「違憲」ということらしいが、天皇の参拝に関し批判がないなら合憲か?
そもそも天皇制自体、宗教的なものですよね。
だから憲法の第1条から8条は、憲法20条の第1項及び3項と矛盾していることになります。
第20条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
この矛盾を解消する為に、第1条から8条をバッサリ削除し、天皇制を廃止せざるを得ないでしょう。
先般のホリエモン発言に伴う2ch上の書き込みなどに見られるように、日本国民の天皇制に対する嫌悪感は根強いものがありますが、もっとも現段階では、憲法改正に伴う国民投票にて「有効投票の総数の二分の一を超える」ことは難しいと思いますので、機が熟するのを待ちますw
2005年10月03日
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>として、批判もお構いなしに首相が参拝を続け
>ていることが、靖国神社は政府にとって特別な
>存在だと知らしめたことを、指摘しているので
>ある。
この主張には、論理的な誤りがあります。憲法20条第3項で禁じられている宗教的活動に当たるか否か、の判断に、その宗教法人がどのようなものであるかは影響しません。目的効果基準は、「参拝の対象が何であれ」行為の目的と効果が一定限度を超えたら、憲法に抵触する、という基準を示したものです。ですから、今回は靖国神社参拝が争点となったわけですが、「目的効果基準に照らし合わせて」違憲である、と判断した以上、全く同じ手法によって参拝が行なわれた場合、参拝の対象が神社、寺院、教会、モスク等々であったとしても、それらは全て「違憲である」と判断されなければ、論理的な矛盾をおかすことになります。
憲法20条3項は、宗教に対する援助、助長、促進だけでなく、圧迫、干渉も禁止していると考えられるため、参拝については同じ手法をとりながら、仮に司法府が「靖国神社は違憲、伊勢神宮は合憲」と言ったような判断を下した場合、これは国家権力による(靖国神社という)宗教への弾圧と考えられ、憲法に抵触します。この点で、今回の大阪高裁の判決が「参拝に対する内外の批判が」云々という、靖国神社に特有の事情を絡めて判断した、と言う点では、少々危なっかしい判決であったと言うことが出来るでしょう。
そもそも憲法とは国家権力に対する「歯止め」であって、国家権力が国民を統制したり、国民に一定の価値観を押し付けたりする道具ではない。 これが近代憲法の約束ごとなのであり、国際的な常識です。
ところが、最高裁判所が国会議員が明らかに違憲の法律を作っている(例えば現行の選挙法やイラク派遣法)ことに対して、速やかに違憲判決を下さない為に、少し言語能力に乏しい人々が騒ぎ立てる事を助長していると思います。
「靖国参拝が違憲だ」と裁判官が述べたのは「傍論」です。要するに大谷正治裁判長の個人的な感想に過ぎないから、法的拘束力は全くないわけです。
裁判所は、「法の語り部」ですから、高裁が違憲判決としたならば、判決の主文にそれを述べることで、国側は本件について最高裁で憲法判断が求められますが、裁判官のつぶやきの「傍論」に違憲判断を述べることは「蛇足」に過ぎず、越権行為との司法界の批判もあるのです。
> そもそも憲法とは国家権力に対する「歯止め」であって、国家権力が国民を統制したり、国民に一定の価値観を押し付けたりする道具ではない。 これが近代憲法の約束ごとなのであり、国際的な常識です。
そして、本来そうあるべき憲法を正反対の、国民を縛るための道具へと改悪しようとしているのが自民党政権ですね。
参拝費用が公費から支出されたのであれば問題ですが、どうなんですか?
>違憲だから参拝は公務ではない、私事です。
>参拝費用が公費から支出されたのであれば問題ですが、どうなんですか?
前提と結論が逆転しています。当該事件における、小泉首相の靖国神社参拝が、「憲法20条3項が禁止する宗教的活動にあたる」かどうかを判断するための前提として、参拝が私的行為として行なわれていたか否かの判断をしているのです。その結果、小泉首相が公用車を用いた等、私的行為だったとは言い切れない、と大阪高裁は判断したので、結論として「違憲」となるのです。
「職務行為に当たるかどうか」の判断には、裁判官に広い裁量が与えられているので、例えば東京高裁では、公用車を用いたぐらいでは職務行為に当たらない、と判断しています。
信仰の自由が無いとはどこにも書いてない。
憲法を改正して信仰の自由の無い人の項目を入れるんですな。