「私たちの社会が、現実に犯罪を犯さなくても、それについて話し合っただけで、刑罰が科せられる『約束』をもってしまったとしたら、どうだろう。『組織的犯罪集団』に属さなくても、現実に犯罪を『実行』しなくとも、『相談・合意』だけで処罰されたとしたら。どうなるだろう。今回は成立せず次回国会に向けて継続審議となった共謀罪とは、思想信条、言論の自由を阻むための弾圧法であり、それは戦前の「治安維持法」の再現に他ならない。
『共謀罪』を立証する決め手の一つ、つまり『相談・合意』があったという立証は、その会話の録音になるだろう。合法的な組合の会合で、会社側に対する厳しい言葉が飛び交ったとしよう。それを誰かが録音して届け出た場合、『共謀罪』に問われないという保障はない」
(中略)「戦前戦中の戦時特別刑法の下では、『相談・陰謀罪』が規定されて、『実行』に及ぶ以前に怪しげな者の身元を拘束できた。『怪しげ』の範疇には、時の権力に反するもの、戦争に反対するもの、その社会の少数派も含まれる。『共謀罪』に反対する集まりで発言した人が逮捕される・・・。成立してしまえば、当然それもアリ!だろう」
・・・以下は「百万人署名運動全国通信 第96号」で紹介されている、小樽商科大学・萩野富士夫教授の「治安維持法の歴史に学ぶ 共謀罪の制定を許さないために」という講演記録より引用。
治安維持法という弾圧法は、1925年「普通選挙法とセットで」公布された(つまり戦前の日本には国民が政治に参加する自由など実質存在しなかったと言える)。この法令は
「国体を変革し又は私有財産を否認することを目的とし結社を組織し又は情を知りて之に加入したる者は10年以下の懲役又は禁固に処す」というものだった。つまり天皇制を否定し共産主義を唱える者らだけを取り締まる法なので、「拡大解釈の余地はない」という政府の説明によって成立した。
しかし1928年、山東出兵に対する「反戦・反軍闘争」に揺れる政情下にて「緊急勅令」が下され、「目的遂行罪」が追加された。上記の条文に加えて、「又は結社の目的遂行の為にする行為を為にしたる者」も、「2年以上の有期の懲役又は禁固に処す」ことが定められたのである。
この「目的遂行罪」が最初に適用され有罪判決が下されたのは、「1930年11月の『無産者新聞』の配布行為」だった。天皇制の廃止や共産主義を主張するだけでなく、単に印刷物を配布しただけでも有罪とされたのである。
「つまり、共産党の目的について共感し同意して配布したのではなくても、単に配布したという行為だけで処罰対象になるということです。共産党に対する認識さえあれば、一切の行為が処罰の対象となる。その行為が目的遂行かどうかということは、警察・検察が判断する。彼らにも判断の主体があるわけで、なんでもアリがここからスタートしたわけです」さらにこの悪法の拡大解釈はエスカレートしていった。
「1935年の3月には出版以前の原稿作成行為も目的遂行に認定され、1938年11月には『具体的には何等結社と関連なく又結社の目的遂行と関連なきもの』も、コミンテルンとか共産党がどういうものかを知っていれば、『同党の拡大強化を図らん』としたものと認定されました。ですから、なにか具体的な行動ではなくて、京大俳句事件や生活綴り方事件など、研究あるいは文学のレベルにおいても処罰されていったのです」さらに1941年の「大改正」によって、この悪法は魔女狩りの様相をも呈するようになった。
「そして共産主義運動とみなす領域は拡大し、戦争はいやだという厭戦気分など大衆の意識も監視の対象となり、共産主義運動の温床とみなされた自由主義、民主主義、あるいは個人主義が抑圧・取締りの対象になりました。
さらに『国体』にまつろわない宗教、いわゆる民衆宗教・創唱宗教であったり、キリスト教や仏教のなかのごく一部の信仰者、あるいは創価学会やPL教団にも弾圧が加わっていきました」
「『支援結社』、『準備結社』、あるいはそれにも満たない結社や集団さえも処罰するという規定を新たに設けることにしたわけです。準備結社の、さらにその目的遂行行為を設定するわけです。最初の治安維持法から考えれば、そこの規定は数倍に膨らんでいきます。つまろ、この『大改正』で、およそ考えられる可能性のすべてを網羅したということです」これの運用の目的について、名古屋の「控訴院検事局」の検事は次のように述べたという。
「『法益及現状の重大並立法理由に鑑み検挙は、最高度の早期検挙を断行し』、まさにほんのちょっと芽生えが見えたとしたら、もうそこからえぐり取れ、と。そして『一網打尽以て抜本塞源の実績を挙ぐること』と。これが彼らの本音です。彼らはこの新しい武器を手にすることによって、一層の抑圧・取締りに駆り立てられていったのです」・・・元々、天皇制の廃止や共産主義を主張することだけを取り締まる目的(それだけでも十分問題だが)という説明で成立した「治安維持法」は、このように言論・思想信条・信仰の自由を奪い、政府に対して不信感を抱くことすら弾圧するものに拡大していった。
犯罪の抑止という口実(もちろんそれだけでも十分問題だが)で再三国会に提出されている共謀罪も、もし成立してしまえば国民の手足を縛り口を塞ぐために用いられるであろうことは確実だろう。
・・・ちなみにこの悪法の元々の取り締まり対象は「国体を変革することを目的とした結社」であったが、1941年の「大改正」によって大幅に条文が増え、以下に示すように魔女狩りの如き弾圧を可能とするものになった。
★そのような「結社を支援する結社を組織した者、または役員、指導者」(最高刑は死刑)、
★そのような「結社を準備することを目的とした結社を組織した者、または役員、指導者」(最高刑は死刑)、
★上記の「目的をもって集団を結成した者、または指導した者」(最高刑は無期懲役)、
★あるいはそのような「目的をもって協議、煽動、宣伝した者」(最高で懲役10年)
★以上のような「罪を犯させるために経済的援助を与え、または、その申し込み、約束をした者」(最高で懲役10年)
これは「日本の戦争責任」(若槻泰雄/著 小学館ライブラリー135)のP-32〜33より抜粋。
また、時代は遡るが1929年2月の第56回通常議会にて、「労働農民党議員山本宣次」が、特高警察の思想犯に対する拷問の実態を明らかにしたという。
彼が述べた例だけを次に列挙しよう。それは文字通り“身の毛もよだつような”すさまじさである(荒垣秀雄編『日本のレジスタンス』)。全く江戸時代の拷問そのものだ。
●寒空に真っ裸にされて、四つんばいになって、はい廻らされた。
●同じくコンクリートの上をはわされた。
●床をなめさせられた。
●鉛筆を指の間にはさみ押し付けられた。
●竹刀で気を失うまでなくられた。
●三角形の板を横に並べてすわらせ、ひざの上に石を置いた。
●天井から逆にぶらさげ、血が逆流し悶絶するまでほおっておかれた。
●生爪をはがした。
●婦人には更にひどい凌辱が加えられた。
(同上P-35〜36)
この追及に対して「内務政務次官」の秋田清政は、
「聖代(天皇がお治めになる立派な時代)に、そういうことはあり得ない。存在しない事実を前提にして所見は述べられぬ」(同上P-36)と回答を拒否したそうである。(しかしその「聖代」において既にこの時日本は、日清・日露戦争、シベリア出兵、間島出兵、山東出兵など侵略と干渉を繰り返し、捕虜や民間人を虐殺し、古くからの親交があった隣国の王妃を暗殺し、そして植民地化し、独立運動には徹底した弾圧を加えるなど、残忍極まりない行為を繰り返していたのだが?)
また、戦後にある評論家は次のように「治安維持法」の本質を突いたという。
戦前の特高警察の暴威を体験した評論家青地晨が、次のように述べているのは的を得た言葉であろう(富山妙子編「反権力の証言」)。同じように共謀罪という名で「治安維持法」を復活させようと目論んでいる自民党の連中にとって、政府に批判的なマスコミ、ジャーナリスト、市民団体や、「過激派」(呼ばわりされている団体)は、自分たち政権党やアメリカ様に逆らう「不忠な奴、つまり異端だから」、どうにかして弾圧し消し去りたいのが本音であろう。
「天皇に反逆した魔女のような奴は、どんな拷問をしようと、良心の呵責は感じないですむわけなんだ。天皇に対して不忠な奴、つまり異端だから法律の欄外にある」(同上)