「新東京国際空港」の建設地が成田に決定する以前は、近くの富里村に建設する予定だったが、地元農民の強硬な反対によって撤回された(富里村は成田市三里塚のような開拓農村ではなかった。政府には、三里塚の事情が空港建設を容易ならしめるのではないかという身勝手な見通しがあったのである)。
驚いたことに茨城県の霞ヶ浦の一部を埋め立てて建設する構想もあったという(これも地元の反対と、地質調査によって適さないことが判明し撤回)。東京や埼玉、神奈川に在住の人で霞ヶ浦に行ったことのある人なら、あそこがどれだけ遠いか分かるはずである。
そもそも、富里や霞ヶ浦や成田よりもずっと都心に近い横田や厚木で、広大な土地がどこかの国の軍隊に占拠されている不条理に向き合うことが先ではないか?
しかし当時も現在も変わらぬ日本の病的なアメリカへの追従が、あのような馬鹿げた土木工事を行わせてしまったのである。
・・・成田闘争は1966年の計画発表の当初から激しく展開し、ガキだった俺もテレビのニュースで岩山大鉄塔を巡る攻防などを興味深く見守っていた。そういう俺にとって1978年3月26日の事件は血が騒ぐものだった。
開港を4日後に控えたその日、空港反対の活動家のグループが成田空港の管制塔に侵入・占拠し、内部の設備を徹底的に破壊した。しかし開港は1ヶ月と20日間遅延しただけだった。恐らくは関連する業者が不眠不休の体制で修理を行い開港に間に合わせたのだろう。
ガキのころは想像することはなかったが、今にして思えば、作り上げたばかりの物を破壊され、大至急もう一度作り直さなければならないとは、精神的なショックもただ事ではなかっただろう。
たとえば管制のための監視操作卓、計器類も破壊されたであろうが、俺は以前その方面の仕事をしていたので、この復旧がどれだけ大変か想像がつく。まず組み上げるだけでも大変である(俺は組立ラインの経験はないが)。そしてランプ、スイッチ、計器類の動作試験を行い、それから現場とのインターフェース試験を全点やり直さねばならないではないか!こんな大変な作業を1ヵ月と少々でやり遂げた技術者の方々の奮闘には頭が下がるものである。といってもあの事件は溜飲の下がるものであったことに変わりはない。
当時、このニュースに狂喜している俺を「頭が狂ったのか?」と叱った父も、「こんなゲリラ事件ばかり起こるところに空港なんか作らない方がいいかも・・・」と呟いていた。
この事件より前のことだが、新聞に「19××年、成田空港建設断念、残るは廃墟のみ」という一コママンガが載っていた。当時(70年代後半)、表向きはともかく胸のうちではみんな成田空港建設をウザく感じていたように思う。残念ながら実質上アメリカの属国とも言えるこの国の政府が建設を強行した空港は完成してしまったのだが。(ちなみにこの国のアメリカとの異常な関係は、民間航空機に横田空域という屈辱的かつ極めて危険な航空路を強いている)
だいたい、上のほうに書いた「羽田がパンク状態だった」というのは一種の錯覚だったのである。
「1960年代に入ってから、羽田空港の狭隘化ということがますます主張されることになり、新しい首都圏の国際空港の立地を求めるという動きが活発化していった。その背景には、民間航空の拡大ということがよく挙げられるが、基本的には軍事目的が主たる要因であった。とくに、アメリカがヴェトナム戦争の泥沼に入っていく過程で、兵員、武器輸送の中継地としての重要性がとみに高まっていったということが、羽田空港狭隘化の主な原因だったのである。1967年頃には、米軍チャーター機の羽田空港での離着陸回数は月200機に上っている。
個人的な次元のことになるが、私もこのことを身を持って体験したという苦い経験をもっている。当時、私はシカゴ大学で教えていたが、ヴェトナム戦争の拡大にともなって、家族を日本に帰して、年に何回か、シカゴに出掛けるという生活をしていた。ところが、羽田からシカゴへの直行便には必ず、大ぜいのアメリカ兵たちが乗っていた。アメリカ軍がヴェトナムでジェノサイドともいうべき残忍な虐殺をおこなっていたときで、乗り合わせたアメリカ兵の一人一人が不気味な雰囲気を撒き散らしていた。どの便にも民間人はほんの少数であって、私たちは息をのんで、シカゴに着くまでの十数時間を恐怖におののきながらすごしたのであった。私はそれ以来、現在にいたるまで飛行機に乗るたびに、ヴェトナム戦争の頃のことを思い出して、当時の恐怖感が甦り、飛行機に対して強い嫌悪感をもたざるをえない」
(岩波新書216 宇沢弘文/著「『成田』とはなにか 戦後日本の悲劇」P-74〜75より)
アメリカの行った侵略戦争は、ベトナムの民衆を虐殺し続けるだけではなく、この国の農民の土地を強奪し空港を建設させ、現在でも首都圏の人間に負担を強いることにも繋がっていったと言えるだろう。
成田空港など作らせてはならなかったのである。成田空港を利用することもある身だが、反対運動を続けていた農民、活動家たちを支持する。また、わずか二ヶ月弱開港を遅らせたに過ぎないが、管制塔を破壊した活動家たちに対する個人的な共感は捨てられない。
ところで彼らの刑期は終わっているが(一名は自殺)、民事上の追及は終わっていなかった。彼らに賠償を要求していた空港公団は今年7月5日、時効の直前になって彼らの財産や給料に対する差し押さえの手続きを行うという暴挙に出た。法的には問題のないことだがなんとも納得しがたい仕打ちである。
しかしかつての活動家仲間や、「旗旗」などのブログにてカンパを集める呼びかけが行われ、わずか4ヶ月で1億300万円のカンパが集まり、今月11日、元活動家らが国土交通省を訪れ賠償額を完済した。(キャッシュ)
カンパしなかった俺がいうのもなんだが、おめでとうございます!!
ところで、「旗旗」では成田闘争に関連する別の呼びかけも行われている。(他記事へジャンプ!)
ブログの内容のことではないのですが、あなたのサイトの白抜き文字は、私のパソコンでは非常に見えにくいです。
私のパソコンの問題だけならいいのですが、よろしければ、もっと見やすくしていただけないでしょうか。
>アメリカの行った侵略戦争は、ベトナムの民衆
>を虐殺し続けるだけではなく、この国の農民の
>土地を強奪し空港を建設させ、現在でも首都圏
>の人間に負担を強いることにも繋がっていった
>と言えるだろう。
と、ヴェトナムで暴力を行なったアメリカを批判している一方で
>反対運動を続けていた農民、活動家たちを支持する。
>管制塔を破壊した活動家たちに対する個人的な共感は捨てられない。
というように、暴力を用いた過激派のことを非難するどころか賞賛しているのは、矛盾ではありませんか?
空港建設反対のために、手段を選ばなかった過激派を賞賛するならば、ヴェトナムへの介入の手段を選ばなかったアメリカをどうして非難することができましょう。
とりあえず、強調したい部分を真っ白にするのはやめます。他の方法を考えます。
今後ともよろしくお願いします。
仰るようにベトナム戦争も管制塔破壊も暴力ですが・・・
たとえば私は、北朝鮮で自爆テロが起き、それがきっかけで民主的な政権が誕生したとしたら(もしくはそれが目的のテロだったら)、
私はそのテロ実行者に共感しますね。
<font color=red>「そのテロに共感するというお前が、金正日政権の行いを批判する資格はあるのか?」</font>
という追及には答えられませんが。
天皇教の聖地の一つですからね、御料は、、。
ノンポリさんはいい事言うんだけど、テロ絶対否定の理論武装をしたほうがよいと思う。テロを認めることは結局防衛戦争を認めることになり侵略戦争を認めることになっていってしまうよ、多分。
ご指摘の件はじっくり考えてみます。
というか普通の字でも同じことだろうなあ。シーサー提供のレイアウトを「ブラック」を選んだのが間違いだったのか。
さて、どうしようか?
それじゃ情けないですから(笑)、とりあえず真っ白にした字は色指定を解除する作業を行っております。
デザインの変更については悩んでおります。