2016年01月22日

ジェノサイドの政治

 かつてこのブログで引用したこともある「証言 水俣病」(栗原彬/編 岩波新書)を改めて読み返してみて、水俣病患者に対する行政の冷淡さと市民の差別感情に愕然とした。そして、患者を巡るこのような構造は、チッソの廃液が水俣病の原因であることを認めようとせず、当時の国策であったオクタノール増産のために廃液垂れ流しを黙認し、現在でも未認定患者の救済を拒み続ける日本政府にとって好都合なことであろう。
 編者の栗原彰氏は「序章 死者と未生の者のほとりから」にて、水俣病患者を見殺しにする国家と資本の構造を突いている。

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2015年11月01日

備忘録: 【こちら特報部 子宮頸がんワクチン副作用 苦しみ深刻化】


 恥ずかしながらHPVワクチン(通称:子宮頸がん予防ワクチン)の実態とその副作用の恐ろしさについて全く知らなかった。
 前半は(非常に遅くなったが)2015年5月17日・東京新聞 【こちら特報部 子宮頸がんワクチン副作用 苦しみ深刻化】 から引用。ほぼ丸写し。後半は関連サイトからの引用。


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2012年02月22日

水俣病「救済」7月打ち切りを許すな!

 3.11原発事故によってこの国で起こった現象を簡単に羅列すれば・・・日本政府は重要な情報を隠蔽し、実態とは程遠い収束宣言を発し、低線量なら危険は無いと根拠も無く決めつけ、加害企業の東京電力を手厚く保護し、その東電は実態を公表せず、責任逃れを企み、マスゴミと御用学者は安全キャンペーンを張り、経済界は原発が無ければ電力が足りない・経済が成り立たないとほざき、原発労働者の被曝は黙殺され、福島県や東日本どころか全国民に被曝が強制されつつあるわけだが・・・これはこの国での(現時点での)最大最悪の公害病である水俣病を巡る経緯とそっくりではないか?
 誰かどう考えてもチッソの廃液が原因であるのに、旧日本軍の遺棄された砲弾が原因であるという珍説がまかり通り、東大教授某は腐った魚を食べたのが原因であると言い放ち、マスゴミはニセ患者説を唱え、加害企業チッソは原因・責任を認めず、(実際にはメチル水銀の除去は出来ない)「サイクレーター」(参考)設置によって廃液は浄化されるとペテンをかけ、毒液を垂れ流し続け、工業製品に重要なアセトアルデヒド製造を維持させたい日本政府はチッソの行状を黙認し、チッソが倒産しないように手厚く保護し、水俣病被害者は見殺しにされてきた。これがこの国の戦後の「豊かさ」の実態である。

 ところで2012年2月3日、水俣病であるのに水俣病だと認定されていない患者を「救済」するための水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法に基づく給付申請の期限を、2012年7月31日までにする、と発表された(環境省の告知)
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2011年01月21日

水俣病被害者が「一時金」を受け取ったら生活保護を切られた

 以前、大阪市羽曳野市で生活保護受給者が市職員からセクハラを受けたため市を提訴し賠償金を得たものの、なんと市は、生活保護費から賠償金の分を相殺した・・・という許せない事件があったが、また同様なことが・・・

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2009年10月30日

要するにほとんどの受信者が水俣病らしい

 なのに、長年放置されていたわけだ。
(魚拓)
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2009年09月26日

「何でボランティアがしなければいけないのか」

 20日と21日に熊本県・鹿児島県の不知火海の沿岸にある市町の各地で、認定は受けていないが水俣病らしい症状がある住民を対象に健康調査が行われた。
 1051人が受診しそのうち357人が水俣病の認定申請を「希望」し、603人が「新保健手帳(医療費が無料になる)」の申請を「希望」した。

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2009年08月20日

30代の水俣病患者

 水俣病の存在が公式発表されたのは昭和31年、つまり1956年。53年前である。またチッソの水俣工場が有機水銀の垂れ流しを停止したのは1968年5月。しかしそれ以降に生まれたのに水俣病の症状に苦しむ人々がいる。8月8日朝日新聞「水俣病救済『枠外』の患者」より引用。

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2007年11月30日

水俣病患者団体がチッソ本社で抗議

与党の政治解決案さえ拒否しているチッソに対し、患者団体の「水俣病出水の会」と「水俣病被害者獅子島の会」が11月29日にチッソ本社を訪れ抗議を行った。

◆水俣病救済負担拒否 出水の会と獅子島の会、チッソ訪れ抗議 (魚拓)
◆水俣病出水の会、チッソ本社に抗議…「与党の救済策に応じて」 (魚拓)

チッソという企業には責任感というものは皆無だな。
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2007年11月25日

チッソに減税?

与党の救済案さえ拒否しているチッソに対し、法人税などの減税が検討されているとのこと。


・・・そりゃちょっと違うんじゃねえの?本来チッソが補償のために全ての資産を投げ出すべきじゃねえか?「ヒューザー」とか「NOVA」が顧客に補償する資金が足りないからといって、減税したりしねえよな?
◆チッソの特例減税を検討 水俣病救済で与党PT (魚拓)

(関連)
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2007年11月16日

チッソは金を出したくないので政府の救済案さえ拒否

先月発表された水俣病の政治決着案については、受け入れを拒否し法廷で争うことを表明した団体もあるなど物議を醸しているが、なんと原因企業のチッソは、この与党プロジェクトチーム(PT)の案さえ受け入れず、負担を拒否するという。
政府が補償するのは当たり前だが、その前にこんな企業は身包み剥ぐべきだと思うのだが・・・実際は国はこの企業を「あの手この手で支え続けてきた」のである。(ここの後半を参照)

◆チッソ、水俣病で新たな負担拒否・19日表明 (魚拓)
◆水俣病救済策、チッソが拒否の方針…財源負担「理由ない」 (魚拓)
◆チッソ負担拒否「あってはならない」=水俣病救済策で潮谷熊本県知事

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2007年10月28日

水俣病政治決着案 2団体が受け入れを表明

水俣病の未認定患者問題に対し、政治決着を図る与党プロジェクトチーム(PT)は、一時金150万円、療養手当月1万円を支給し、医療費の自己負担分を給付することを決定した。

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2007年04月11日

【カネミ油症救済、与党合意 仮払金帳消しし20万円支給】

そんな返済なんて帳消しにして当たり前じゃねえか。しかも一時金がたったの20万円ですか。雀の涙ですな。

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2007年04月06日

「チッソはもう一人の自分」

日本社会の「仮構性」がもたらした水俣病事件の続き。

この日本という国の基本構造である「仮構性」によって水俣病事件が拡大したことを書いたが、わが身を振り返ってみれば、上司の指示に疑問を感じても黙って従い、不都合な事態が発生しても当たり障りの無いように処理し、ただ自分の職を守るために働いてきた。まさに「ということにして」を続ける人生だったのである。
このように「仮構性」の中で暮らしている我々に対して、チッソと行政を追及する闘いの中心にありながら突然運動から辞退し、自分の水俣病認定申請も取り下げた緒方正人さん(参考記事)は、そのような「システム社会」から抜け出すべきだと提言している。「証言 水俣病」(栗原彬/編 岩波新書)より引用。

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2007年04月05日

日本社会の「仮構性」がもたらした水俣病事件

昨年、水俣病に関する投稿をパート1まで書き、さらにタイトル変えて補償問題についても書いた。
一年近くたってしまったが、さらに2件ほど水俣病について書く。

まずは2006年3月13日朝日新聞の特集記事「苦悩と矛盾 裁判に」より引用。
熊本県水俣市の対岸の離島の御所浦町に住む山崎和秋さん(57)の半生が紹介されている。この人の写真が掲載されているが、一見年齢の割に老けて見えるが逞しい漁師さんか大工の親方・・・というような風貌。しかし水俣病の症状のため両手の指や手首は内側によじれ、足と背も曲がり、歩行も困難であり言葉も不自由。7歳のとき身体障害者1級の手帳を交付された。小学校には数日通っただけで、現在でもほとんど外出をしない。弟の通治さん(53)によると、ここ10年で症状が悪化しているという。

「網元の家に生まれ、毎日のように魚を食べて育った。亡くなった両親も(弟の)通治さんも、家族全員に手足のしびれなど水俣病特有の症状があった。だが、差別や偏見を恐れ、誰も認定申請をしてこなかった」。
通治さんは「家に水俣病患者がいると、周りから後ろ指をさされる。島の生活の中で、どれだけつらいことだったか」と語る。

驚くべきことにこの山崎和秋さんが水俣病として認定されたのは2005年だった。関西訴訟の最高裁判決の後、「自分たちが年をとったら兄の世話はどうすればいいのか」と悩み始めていた弟の通治さんが認定申請を決断し、兄にも検診を受けてもらったところ、四肢の重度の感覚障害・視野狭窄・聴力障害など、行政の認定基準に該当する症状が認められたのである。

水俣病不知火患者会・会長であり同会による水俣病訴訟の原告団長の大石利生さんは、2005年12月26日の口頭弁論終了後の記者会見で和秋さんについて「その人の歩く姿や表情は、私が1961年ごろ病院で見た劇症型の患者さんそのものでした」と語り声を詰まらせた。和秋さんもこの裁判の原告に加わった。
「あんたみたいな人がいることを世間に知ってもらわんと水俣病の患者は救われんとたい。きつかばってん頑張っていけよ」と大石さんに激励され、和秋さんは「ふふ」と笑うだけだった。(こちらも参考のこと)

山崎さん一家は地域での差別を恐れて長い沈黙を続けてきた。水俣病への無理解を放置し、患者救済に消極的で、国家としての責任を曖昧にしてきた日本政府の態度も、これを助長していたと考える。
このような水俣病という恐ろしい人災を起こしたにもかかわらず、日本政府は責任を認めず患者を見捨てようとした。それは、自民党政権を批判し続けてきたはずの日本社会党から首相を選出し1994年に誕生した内閣も変わるところはなかった。

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2006年11月26日

【チッソが時効を主張、請求棄却求める 水俣病訴訟】

惚けまくって嘘つくまくって逃げまくって、挙句の果てに「時効」かよ!

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2006年06月25日

水俣病補償問題

「水俣病という縮図」というタイトルでパート1まで書いたが、この恐ろしい国家的犯罪の補償問題がどのような歴史をたどっているのか、「水俣病事件四十年」(宮澤信雄/著、葦書房)を中心にして簡単に学んでみる。

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2006年06月22日

【薬害C型肝炎訴訟、国と製薬会社に賠償責任 大阪地裁判決】

よしこタソも指摘してるんだから、1985年に感染した人にも補償するべし。

ところで厚生労働省は「B型に続きダブルパンチ」と嘆いているらしい。B型感染者だけの補償でも、最高裁判決(一人当たり500万円)から試算すると、3兆5550億円。「まともにやると国家財政が破綻してしまう」(以上、6/22朝日より)
そのくらいなんとかなるんじゃないかなあ。辺野古沿岸埋め立て計画、米軍再編に関わる日本側負担、思いやり予算、MD開発計画とかを一切廃止すれば簡単じゃねえの?続きを読む
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2006年06月14日

水俣病という「縮図」5

水俣病という「縮図」4の続き)
1956年の春ごろ、水俣のある家庭で飼っていた「子猫のゼラ」が突然死に、当時小学6年生の娘がその悲しみを作文にした。
「もう朝方だったでしょうか。『あっ!ねこの死んどるが』とお父さんがふいにおっしゃったので私はビックリして飛び起きました。
見ると、一番かわいいねこのゼラが、死んでいます。おなかのところが丸くなって、青白くなり、手足はぐったりとなって死んでいました。足を曲げようとしても少しも曲がらなくて、かちかちになっていました」
水俣近辺の猫が狂ったように動き回り、「ムササビのように」走り出して壁に激突し、焚き火に飛び込んだり海に飛び込んだりする異常行動は、水俣病が公式確認されたこの年より以前から多発していた。彼女が通っていた小学校でも猫の「踊り病」が噂になっていたが、彼女は「そんな恐ろしい病気にゼラがかかるわけがない」と自分を思い込ませようとした。
「ゼラちゃん、私はちっとも知らずにあなたをふんでしまったのね」
彼女は成人後結婚して3人の子供を育て、夫の定年まで水俣に住んでいたが、この作文を書いた以降は「水俣病を文章にしたことも、会話で触れたこともない」という。
この作文を文集に載せた教師は当時を振り返って「猫や魚の死を扱う作文は多かった。でも水俣病が騒がれ始めると、病気に関する作文はなくなっていく」と語る。水俣病を語ることがタブーになっていたのである。

「水俣一小」の教師だった広瀬武さんが受け持ったクラスの中に、劇症型水俣病で父を亡くした児童がいたが、家庭訪問の際には「入院中」と説明されていた。広瀬さんは後に「まったく気付かなかった自分が恥ずかしかった」と悔いる。
この小学校はチッソの事業拡大によって熊本一の「マンモス校」となり、PTAは「チッソ幹部の妻たちで占められ、『標準語に気後れがして、ものも言い切らんかった』と振り返る」。
学級は、水俣という社会の縮図。だが、若い教師は「20坪での教室での授業しか考えていなかった」。そして暗黙のタブーに、のまれた。
1971年広瀬さんは、初めて水俣病患者を社会科の授業に呼んだ。患者の浜元二徳さんは「震える手でチョークを持ち、ゆっくりと『水俣病』と書いた」。
ところが「行き過ぎ」と校長会や市議会から問題視され、「チッソに矢を向けるのか」という脅迫電話も来た。患者の家族からも「今さら寝た子を起こさんでくれ」と手紙がきた。しかし広瀬さんは「物を教うっとが教師の仕事じゃろ。あんたたちが水俣病ば教えてこんだっけん、患者が苦しまんとならん」という浜元さんの励ましに助けられ、授業を続けた。現在では熊本県内の全小学校が「エコセミナー」として水俣病を学んでいる。(以上、4/13朝日新聞特集記事「運命共同体の地で 4」より引用)

水俣病が発生した地で、水俣病について語ることがタブー視されていたとは不可解に感じるが、当時の水俣という街の事情や、この国のどこにでも見られる社会構造、そして日本人の「心性」から考察すれば理解できるだろう。


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2006年06月10日

水俣病という「縮図」4

水俣病という「縮図」3 「サイクレーター」というまやかしの続き)

中学生の時、学年の全クラスが体育館に集まって水俣病のドキュメントフィルムを見たことがある。無責任なチッソの経営者に激しく詰め寄る患者たちに深く同情したが、“つっぱり”グループのボス格の生徒さえも、上映後教師に感想を求められて「チッソの連中は、人間とは思えない」と語っていたことが印象的だった。
また、水俣の漁民がチッソの工場に乱入した事件は知っていた。(しかし漁民が入り込んだのは管理棟だけであり、生産工場は全く無傷だった。当時の西田工場長も漁民に殴られたが、後に自分たちが殴った人物が工場長であることを知った漁民は「西田だと分かっていれば生かしておかなかった」と悔しがったという。「水俣病事件40年」より)
俺の水俣病に関する知識は今までその程度だった。被害をもたらしたのが通常の水銀ではなくメチル水銀という自然界には微量しか存在しない物質であることも知らなかった。チッソが誠意ある対応を取らなかったことは常識的に知っていたが、水俣病発生が明らかになってからもメチル水銀が垂れ流されていたとは思わなかった。それがチッソの犯罪行為であるというだけでなく熊本県や政府も垂れ流しを黙認していたことなど、当然全く知らなかった。

・・・水俣病の原因はチッソの廃液であることを政府が認めたのは1968年であり、水俣病の公式確認から12年も経っていた。それまでメチル水銀は垂れ流されていたのであるが、被害の拡大を防ぐ手段もあった。公式確認の翌年には熊本県で食品衛生法の適用が検討されていたのである。
(1947年の施行から何度も法改正されているようだが)これの第6条では「有毒な、若しくは有害な物質が含まれ、若しくは付着し、又はこれらの疑いがあるもの」は、販売、流通、加工、貯蔵、「採取」など一切を禁じている。これより以前、浜名湖産のアサリの食中毒で多数の犠牲者を出した場合にもこの法律が適用されていた。水俣湾周辺で獲れる魚介類に対してもこの法律が適用されれば、法的に摂食を禁じることが出来たのである。

1957年7月12日の公衆衛生院で、厚生省主催の水俣奇病研究発表会が開かれ、「有毒物質の特定についてはなお今後の研究にまたねばならない」としながらも、
「中毒性脳症であって、水俣湾魚介類を摂食することによって発病する」ことが発表される。これは県にも通知され、7月24日の熊本県の水俣奇病対策連絡会議にて食品衛生法の適用が提案された。告示の権限は県知事にあるのだが、水上副知事は「但し、今一応厚生省と打ち合わせの上、これを行うものとする」(「水俣病事件40年」宮澤信雄/著、葦書房 P-154)
とした。
そして1957年9月11日 厚生省公衆衛生局長が熊本県へ回答した「水俣地方に発生した原因不明の中枢神経疾患にともなう行政措置について」は、
「一、水俣湾特定地域の魚介類を接触することは、原因不明の中枢性神経疾患を発生するおそれがあるので、今後とも摂食されないよう指導されたい
二、然し、水俣湾内特定地域の魚介類の全てが有毒化しているという明らかな根拠が認められないので、該特定地域にて漁獲された魚介類の全てに対し食品衛生法第四条第二号を適用することは出来ないものと考える」(同上P-160)
と、非適用を告げた。食べない方がいい、としながらも法で禁じることを避けたのである。浜名湖産のアサリの事例では原因不明のままこの法が適用されていたのだが。(*注)
食品衛生法は、危険な食品を消費者の口に入れないようにするのが目的だ。原因物質が判明している必要はない。漁業法のように漁民への補償を考える必要もない。「食中毒対策の常道」だ。
実は、同法の適用は県公衆衛生課長の守住憲明と厚生省環境衛生部長の尾村偉久との間で7月に合意されていた。(4/22朝日新聞の特集より引用)
長年水俣病患者の救済に携わってきた宮澤信雄氏はこの事情を次のように推測している。
水上長吉副知事が食品衛生法適用に関して心配していたのはチッソの補償問題だった。そのように見ると、橋本水俣市長の気遣いもチッソのためだったと理解できる。橋本は元水俣工場長だった。(「水俣病事件40年」P-158)

「県は告示できたのに、さらに、厚生省との打ち合わせが必要とした水上副知事が、衛生部の頭越しに不適用を働きかけたのだろう。いずれ、チッソがかぶることになる補償を気遣ったのだ」(4/22朝日新聞の特集より)
また、後の訴訟で厚生省の尾村を追及した坂井優弁護士は次のように述べる。
「厚生省は通産省から『いま法を適用したら、チッソから国家賠償を請求されるぞ』と脅されていた。食品衛生法は企業活動を規制しないが、法の適用が契機となって、いずれチッソが責任追及され、恨みを買うぞ、と。厚生省も、県中枢も、ていのいい脅しの前に立ちすくんだ」
当時、赤字再建団体の県が損害賠償請求を受けて立つ余裕はなかった。(同上)
また、当時の不知火海の沿岸で操業していた6社7工場の協議体である「七工会」に、チッソの水俣工場も参加していた。財政難である熊本県が地元の大工場を保護しようと考えたとしても当然だろう。ともかく熊本県は、県民の健康と生命を無視したのである。

それに通産省がチッソを擁護したのは、当時の国にとって切実な理由があったのである。

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2006年06月04日

【政治決着「再開」打診へ、与党チームが被害者団体に】

国策の被害者に対して政府が責任を負うのは当然。いくら補償金を積んでも被害者が今まで過ごした時間が戻ってくるわけではないが。続きを読む
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