(水俣病という「縮図」2の続き。というか脱線)
チッソの水俣工場が廃水処理の為、と称して設置した「サイクレーター」は、前回も述べたように実際には水俣病の原因であるメチル水銀を除去する能力はなかった。1959年12月の、熊本県知事らを招待した竣工式では、当時のチッソ社長の吉岡喜一氏はサイクレーターから出たと称する水を飲んでみせるというパフォーマンスを演じたが、菅直人がむさぼり喰ったカイワレ大根と違い、本物ではなかったと思われる。(注1)
実際、完成後に試験運転を行いアセトアルデヒド廃水を通してみたところ、「やはり溶解水銀は除去できないことがわかった。除去率はせいぜい40%から80%だった」。(「水俣病事件40年」宮澤信雄/著、葦書房 P-277)
そのため、せっかく完成したサイクレーターへアセトアルデヒド廃水を流すことを中止し(排水経路の変更を伴っていたので再び汚染の著しい水俣湾に排出することになるから)、現状のまま「八幡プール」に流すことにした。(チッソは1958年9月より、何を考えたのかアセトアルデヒド廃水を「八幡プール」に流していた。これは水俣川の河口付近であり、廃水はカーバイド残渣を浸透して流れ出ていった。この処置によってメチル水銀は不知火海(八代海)全体に広がることになる)
後にチッソの関係者が業務上過失致死罪を問われて訴追されたとき、サイクレーターというごまかしについても追及されたが、効果など無くて当然であると平然と語っていた。
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2006年05月11日
2006年05月04日
【「首相なぜ来ない」水俣で不満の声も 水俣病確認50年】
仕事で身動き取れなかったせいで、数日遅れのニュースばかりでスマソ。
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2006年05月01日
水俣病という「縮図」2
(水俣病という「縮図」の続き)
「水俣病」という治療法の存在しない恐ろしい中毒症状を引き起こしたチッソの水俣工場では、
カーバイドからアセトアルデヒドなどを製造していた。
ちなみに、
●カーバイドは、生石灰とコークスを電気炉で熱して製造する。
●コークスは石炭を蒸し焼きにして製造する。
「不知火海一帯は良質な石灰石の産地、対岸の天草は無煙炭の産地だった。それを天然の良港水俣に運べばいい。中央から遠いかわりに、低賃金の労働者が大勢いた。立地条件はととのっていた」(「水俣病事件40年」P-75)。
↓製造工程の概略はこんな感じ
(生石灰+コークス)→カーバイド→アセチレン→アセトアルデヒド
さらにアセトアルデヒドから酢酸やオクタノール、オクタノールからDOPを合成していた。
DOPという聞きなれない物質は、塩化ビニールという身の回りのどこにでもある工業製品を製造する際に用いられている。そのままでは固い樹脂である塩化ビニールを柔らかい素材に変身させるために、DOPを可塑剤として配合するのである。当時オクタノールはヤシ油などから作られていたので、それを原料とするDOPは高価だった。
アセトアルデヒド→オクタノール→DOPという合成技術を開発したチッソは、「1952年以降約10年間にわたってオクタノール市場をほとんど完全に独占しました。このような重要な化学製品を一社で長期間独占することに成功したのは、日本の化学工業史の中でもこのときにチッソのオクタノールだけです」(「水俣病の科学」P-34)。
アセトアルデヒドの製造は1932年から開始された。ところでアセチレンからアセトアルデヒドを合成する時、触媒として水銀を用いていたが、このとき水銀が有機化しメチル水銀となる。この廃水が垂れ流されていたのである。
チッソが水俣に工場を設けたのは1907年(当時は「日本カーバイド商会」、翌年「日本窒素肥料株式会社」、1950年に「新日本窒素肥料株式会社」、1965年に「チッソ株式会社」と改名。以降は便宜上「チッソ」と表記する)だったが、この公害企業はなんと1914年から漁業被害を起こしていた。「黒ドベ」(真っ黒いヘドロ)が工場から流れ出し、水俣漁業組合が抗議していたのである。その際チッソは「果たして工場排水の影響があるのか、仮にあったとしても損害がどの程度か調べるのは難しい」と、補償を拒絶していた(「水俣病事件40年」P-77)。
1926年には「補償」でなく「寄付」という形で、漁業組合に対し1500円が支払われたが、「此の問題に対して永久に苦情を申出さる事として多年の物議を解決したり」という「証書」が交わされた(同上)。
また1943年にも、チッソが漁業組合から被害漁場の漁業権を15万2500円で買い取ることで「将来永久に一切の損害賠償を主張せざる」こと、「水俣工場より産出するカーバイド残渣将来旧水俣川流域方面に廃棄放流するものとする」という契約書を交わしていた(同上P-78)。このような、わずかな金額で与えて以後一切の要求を諦めさせようとするチッソの手法は、その後の水俣病の補償交渉でも用いられることになる。
さて、水俣病の原因がチッソであることが隠しきれなくなった1959年の12月、チッソと漁業組合は、補償金3500万円(この中から打ち壊し事件の損害額として1000万円を相殺)、融資の名目で6500万円、合計9000万円の補償を行う調停を結んだ。
水俣病患者への補償については熊本県が仲立ちし、「死者一時金30万円、成人患者年金10万円、未成年患者年金1万円(後に3万円)」というチッソの提示額が受け入れられた。(同上P-270)
同時期に水俣工場に「サイクレーター」が完成し、廃水から完全にメチル水銀が除去される、と宣言された。
さらに翌年の10月にチッソと熊本県は、漁業組合に1000万円を払うことで八幡沖の10万坪を埋め立てする権利を得た。11月には「水俣病患者審査協議会」が新たに3人の患者を水俣病と認定し、これ以降水俣病は発生していない、水俣病は終わった、という認識が生じた。熊本県衛生部の年報の水俣病に関する記述には、「昭和36年版以降『最近の発生は35年10月』と記載され続けることになる」(同上P-319)
後に水俣病患者第一号と認定された5歳の女児が発病したのは1953年(2年後に死亡)だが、水俣病はこの1953年(昭和28年)に発生し、1960年(昭和35年)に終息した、という「通説」が生まれた。(つまり、その期間内に発病した患者は水俣病と認められ、それ以前に水俣病らしき症状が出ていたと見られる患者、それ以降に症状が出た患者は無視された)
しかしこの「通説」は、愚かしい思い込みだったのである。
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「水俣病」という治療法の存在しない恐ろしい中毒症状を引き起こしたチッソの水俣工場では、
カーバイドからアセトアルデヒドなどを製造していた。
ちなみに、
●カーバイドは、生石灰とコークスを電気炉で熱して製造する。
●コークスは石炭を蒸し焼きにして製造する。
「不知火海一帯は良質な石灰石の産地、対岸の天草は無煙炭の産地だった。それを天然の良港水俣に運べばいい。中央から遠いかわりに、低賃金の労働者が大勢いた。立地条件はととのっていた」(「水俣病事件40年」P-75)。
↓製造工程の概略はこんな感じ
(生石灰+コークス)→カーバイド→アセチレン→アセトアルデヒド
さらにアセトアルデヒドから酢酸やオクタノール、オクタノールからDOPを合成していた。
DOPという聞きなれない物質は、塩化ビニールという身の回りのどこにでもある工業製品を製造する際に用いられている。そのままでは固い樹脂である塩化ビニールを柔らかい素材に変身させるために、DOPを可塑剤として配合するのである。当時オクタノールはヤシ油などから作られていたので、それを原料とするDOPは高価だった。
アセトアルデヒド→オクタノール→DOPという合成技術を開発したチッソは、「1952年以降約10年間にわたってオクタノール市場をほとんど完全に独占しました。このような重要な化学製品を一社で長期間独占することに成功したのは、日本の化学工業史の中でもこのときにチッソのオクタノールだけです」(「水俣病の科学」P-34)。
アセトアルデヒドの製造は1932年から開始された。ところでアセチレンからアセトアルデヒドを合成する時、触媒として水銀を用いていたが、このとき水銀が有機化しメチル水銀となる。この廃水が垂れ流されていたのである。
チッソが水俣に工場を設けたのは1907年(当時は「日本カーバイド商会」、翌年「日本窒素肥料株式会社」、1950年に「新日本窒素肥料株式会社」、1965年に「チッソ株式会社」と改名。以降は便宜上「チッソ」と表記する)だったが、この公害企業はなんと1914年から漁業被害を起こしていた。「黒ドベ」(真っ黒いヘドロ)が工場から流れ出し、水俣漁業組合が抗議していたのである。その際チッソは「果たして工場排水の影響があるのか、仮にあったとしても損害がどの程度か調べるのは難しい」と、補償を拒絶していた(「水俣病事件40年」P-77)。
1926年には「補償」でなく「寄付」という形で、漁業組合に対し1500円が支払われたが、「此の問題に対して永久に苦情を申出さる事として多年の物議を解決したり」という「証書」が交わされた(同上)。
また1943年にも、チッソが漁業組合から被害漁場の漁業権を15万2500円で買い取ることで「将来永久に一切の損害賠償を主張せざる」こと、「水俣工場より産出するカーバイド残渣将来旧水俣川流域方面に廃棄放流するものとする」という契約書を交わしていた(同上P-78)。このような、わずかな金額で与えて以後一切の要求を諦めさせようとするチッソの手法は、その後の水俣病の補償交渉でも用いられることになる。
さて、水俣病の原因がチッソであることが隠しきれなくなった1959年の12月、チッソと漁業組合は、補償金3500万円(この中から打ち壊し事件の損害額として1000万円を相殺)、融資の名目で6500万円、合計9000万円の補償を行う調停を結んだ。
水俣病患者への補償については熊本県が仲立ちし、「死者一時金30万円、成人患者年金10万円、未成年患者年金1万円(後に3万円)」というチッソの提示額が受け入れられた。(同上P-270)
同時期に水俣工場に「サイクレーター」が完成し、廃水から完全にメチル水銀が除去される、と宣言された。
さらに翌年の10月にチッソと熊本県は、漁業組合に1000万円を払うことで八幡沖の10万坪を埋め立てする権利を得た。11月には「水俣病患者審査協議会」が新たに3人の患者を水俣病と認定し、これ以降水俣病は発生していない、水俣病は終わった、という認識が生じた。熊本県衛生部の年報の水俣病に関する記述には、「昭和36年版以降『最近の発生は35年10月』と記載され続けることになる」(同上P-319)
後に水俣病患者第一号と認定された5歳の女児が発病したのは1953年(2年後に死亡)だが、水俣病はこの1953年(昭和28年)に発生し、1960年(昭和35年)に終息した、という「通説」が生まれた。(つまり、その期間内に発病した患者は水俣病と認められ、それ以前に水俣病らしき症状が出ていたと見られる患者、それ以降に症状が出た患者は無視された)
しかしこの「通説」は、愚かしい思い込みだったのである。
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2006年04月30日
【水俣病確認5年前に有機水銀の流出予見 チッソ報告書】
ってゆうかチッソは問題になった後も知ってて垂れ流してたんですが?続きを読む
2006年04月27日
2006年04月25日
水俣病という「縮図」
今年の1月のことだが、深夜の「NHKアーカイブス」にて、「水俣の17年 1972年3月26日」を放送していた。水俣病患者の悲惨な姿の中でも特に、立ち上がることすら出来ずに首から上を無意味に動かし続けている児童の姿がショッキングだった。この児童は胎児性水俣病で、母の胎内で水銀の毒に脳細胞を破壊され、正常に機能している脳細胞は健康な児童の半分以下だと画面の中の医師が語っていた。しかもこの患者らは長い間水俣病であると認定されずに放置されていたという。
・・・もしやと思い、古本屋で買ったがまだ読んでいなかった「水俣病」(原田正純/著 岩波新書B113)を開いてみると、やはり胎児性水俣病患者に関する記述があった。
1961年、当時熊本大学大学院医学部の研究生だった原田正純教授は、熊本県水俣市の明神崎に住む寝たきりの患者の診察に出かけた。その帰り、隣の家に「一目で異常とわかる二人の少年が不器用な手つきで遊んでいた」。話しかけてみたが少年らは警戒心が強く、やっと答えてくれた兄の言葉は実にたどたどしく「明らかに言語障害であった」。弟の方は言葉を発せず「首がフラフラして安定せず」「体をくねくね動かして足を投げ出して、ただはにかんだような笑顔を見せるだけ」だった。
しばらくして母親が戻ってきた。「はじめ警戒していた母親も私たちが熊大の医師とわかると、『兄は水俣病です。下のは水俣病じゃなく脳性小児麻痺です』と答えたのであった」。原田教授は後に知ったのだがこの一家の父親は1954年、「原因不明の小脳失調症」として亡くなっている。
たしかに水俣病とは、チッソが海に垂れ流した廃液中の水銀が魚介類を汚染し、それを食べた住民が起した中毒症状である。しかし魚介類を摂食したことのない幼児も、胎内で水銀の影響を受けていれば水銀中毒の症状を呈する。つまり魚介類を食べたことのない者でも、水俣病になり得るのである。
つまり「水俣病とは水俣の海の魚を食べた者が起す病気」という先入観が、胎児性水俣病患者の認定を遅らせたのである。
(ちなみにハンセン病の患者は戦前、「ハンセン病は母子感染する」として堕胎、断種が強制された。(参考)どちらも非科学的な決め付けに過ぎなかったのである)
しかし、このような愚かしい先入観によって水俣病として認定されなかった者は胎児性の患者だけではない。そもそもこの公害病は、原因企業のチッソや熊本県、日本国政府によって闇に葬られようとしていたのである。
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・・・もしやと思い、古本屋で買ったがまだ読んでいなかった「水俣病」(原田正純/著 岩波新書B113)を開いてみると、やはり胎児性水俣病患者に関する記述があった。
1961年、当時熊本大学大学院医学部の研究生だった原田正純教授は、熊本県水俣市の明神崎に住む寝たきりの患者の診察に出かけた。その帰り、隣の家に「一目で異常とわかる二人の少年が不器用な手つきで遊んでいた」。話しかけてみたが少年らは警戒心が強く、やっと答えてくれた兄の言葉は実にたどたどしく「明らかに言語障害であった」。弟の方は言葉を発せず「首がフラフラして安定せず」「体をくねくね動かして足を投げ出して、ただはにかんだような笑顔を見せるだけ」だった。
しばらくして母親が戻ってきた。「はじめ警戒していた母親も私たちが熊大の医師とわかると、『兄は水俣病です。下のは水俣病じゃなく脳性小児麻痺です』と答えたのであった」。原田教授は後に知ったのだがこの一家の父親は1954年、「原因不明の小脳失調症」として亡くなっている。
この兄弟を見比べてみると、たいへん症状が似ているので、一度弟も診察を受けたらと勧めたが、その返事は答えにならない、きわめてあいまいなもので、診て下さいとも、診てくれなくていいとも言わなかった。医者に対する不信とあきらめであったろう。そのことはあとでわかるが。
この母親は「この年に生まれた子供は、ほかにもこんな子供がたくさんいるとです。うちのいとこのところもです」と言い、それから海を隔てた湯堂のほうを指して「ほれ、あの部落は六、七人もいるということです。それから茂道というところでは、その年に生まれた子供は全部です」と、驚くべきことをきわめて淡々と話した。これには、私たちはひどくショックを受けた。
「どうして水俣病ではないのですか」と聞くと、母親ははじめて笑った。それは、「先生たちこそ知っているんではないでしょうか」と言いたげである。「魚を食べておらんですたい、生まれつきです」。
魚を食べていない、水俣病が水俣湾産の魚貝類を食べることによって起こる中毒性疾患であるという水俣病の概念、その診断基準からすると、それに当てはまらないのである。―――実際、この概念を実証的に打ち破って、これらの患者たちが水俣病であると認められるのには、このときからさらに多くの月日が費やさなければならなかったのである。(「水俣病」P-75)
たしかに水俣病とは、チッソが海に垂れ流した廃液中の水銀が魚介類を汚染し、それを食べた住民が起した中毒症状である。しかし魚介類を摂食したことのない幼児も、胎内で水銀の影響を受けていれば水銀中毒の症状を呈する。つまり魚介類を食べたことのない者でも、水俣病になり得るのである。
つまり「水俣病とは水俣の海の魚を食べた者が起す病気」という先入観が、胎児性水俣病患者の認定を遅らせたのである。
(ちなみにハンセン病の患者は戦前、「ハンセン病は母子感染する」として堕胎、断種が強制された。(参考)どちらも非科学的な決め付けに過ぎなかったのである)
しかし、このような愚かしい先入観によって水俣病として認定されなかった者は胎児性の患者だけではない。そもそもこの公害病は、原因企業のチッソや熊本県、日本国政府によって闇に葬られようとしていたのである。
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2006年04月19日
【クボタ、住民に最高4600万円 石綿救済で合意】
命の値段がそれっぽちですか?続きを読む
2006年04月08日
【水俣病未認定患者、軽症者に月2万円の療養手当支給へ】
とりあえずコピペ。続きを読む
2005年10月08日
水俣病患者を見捨てる環境省
これもちょっと前のニュースだけどさ。つーか小池百合子ってのもタレント議員だったんだね。んなこたあどうでもいいけど、国家というものは国民を救うどころか、往々にして見捨てるもの(日本政府も例外ではない)だということがよく分かるニュースだね。
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2005年08月07日
≪ミナマタも エイズもみんな そうだった≫
このタイトル(朝日川柳より無断借用)が示すように薬害エイズ、水俣病、アスベスト被害などは企業と行政の恐るべき無責任と利益優先主義がもたらした国家的犯罪だが、以下のコピペによると残念ながらアスベスト規制に業界の組合が反対し、そのため当時の社会党も立法化を断念したという。
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2005年03月25日
水俣病医療費、保健手帳所持者も全額支給へ
水俣病の患者のうち、重度の患者は「医療手帳」の交付を受け医療費を全額補償されているが、軽症であるとして「保険手帳」を交付された患者は全額支給されていなかったという。
しかし昨日環境省は「保険手帳」所持者についても全額支給する方針を固めたとのこと。ということは、現状では全ての水俣病患者に対して医療費が全額支給されているわけではないということか。知らんかった!
(以下は問答有用:33879より転載)
水俣病医療費、保健手帳所持者も全額支給へ 環境省案
(アサヒ・コムより)
・・・・「水俣病」という恐ろしい公害病の最初の患者が発生したのが1953年ですが、その前年から水俣湾の沿岸の猫が奇怪な死に様を見せていたそうです。そして熊本大学が水俣病の原因はメチル水銀であることを発表したのが1963年、チッソが「アセトアルデヒド」廃水回収工事を完了したのが1966年、同物質の製造設備を廃止したのが1968年、そして政府がやっと水俣病はチッソの工場の廃液が原因となった公害病であると認定したのが同年9月です。このような長い年月を浪費することになったチッソの無責任と政府の無為無策ぶりには言葉もありません。(その間、1964年に新潟県でも工場廃液中のメチル水銀による重度の神経症状―――つまり水俣病が発生しています)。
●「奇病」の原因が自社工場の廃液中のメチル水銀であることを悟りながら垂れ流しを続け、排水経路を変更して被害を不知火海全域に拡大させ、責任を追及され始めた後も見苦しい言い逃れを続けたチッソについては言うまでもなく、
●既に多くの患者が発生しているのにもかかわらず、メチル水銀の発生原因となる「カーバイド・アセチレン方式」(当時すでに「エチレン酸化法」への転換期に差し掛かっていたのですが)による「アセトアルデヒド」大増産体制をチッソに許可した通産省、
●原因の解明を避け続け食品衛生法を適用しなかった熊本県、そして通産省に気兼ねして全ての対応が後手後手に回った厚生省などの責任も非常に重大です。
これは一企業の不正による公害病というだけでなく、国家的犯罪とも言えるものでしょう。
その被害者の治療費は全額国家負担になっていると勝手に思い込んでおりましたが・・・恥ずかしながら現状は「保健手帳の医療費支給額は月5回、7500円が上限」だったとは知りませんでした!
さらには・・・
★チッソ水俣工場はなんと大正時代から戦前から廃液垂れ流しによる漁業被害を起していたこと、
@そして1926年に漁業組合に1500円を支払い「此の問題に対して永久に苦情を申出さる事として多年の物議を解決したり」という「証書」を交わしたこと、
Aまた1943年にもチッソが漁業組合から被害漁場の漁業権を買い取ることで垂れ流しを公認させ「将来永久に一切の損害賠償を主張せざる」という念書を交わしていたこと、
Bさらに1951年にも、漁業組合に無利子で融資する代償として、水俣川河口の沖合いの一角の漁場に関して「会社の事業による害毒が生じても一切異議は言わないこと」という覚書を交わしていたこと(これが前述の不知火海全域への汚染拡大に繋がりました)、
つまりチッソは金に物を言わせて漁民を封じ込め、廃液の垂れ流しを恒久化しようとしたこと、
★1946年の「アセトアルデヒド」生産再開の翌年、既に水俣病とそっくりの症状を起し亡くなった被害者がいたこと(これは水俣病として認定されていません)、
★そもそも「チッソ」とは、植民地朝鮮に君臨した「日本窒素肥料株式会社」という国策企業だったこと、
★そしてこの、「並みの企業ならとうに倒産しているこの加害企業を、国や熊本県はこれまで、あの手この手で支え続けてきた」ことなども、全く知りませんでした!
(この投稿は「水俣病事件四十年」(宮澤信雄/著 葦書房)を参考にしました)
このニュース
しかし昨日環境省は「保険手帳」所持者についても全額支給する方針を固めたとのこと。ということは、現状では全ての水俣病患者に対して医療費が全額支給されているわけではないということか。知らんかった!
(以下は問答有用:33879より転載)
水俣病医療費、保健手帳所持者も全額支給へ 環境省案
(アサヒ・コムより)
・・・・「水俣病」という恐ろしい公害病の最初の患者が発生したのが1953年ですが、その前年から水俣湾の沿岸の猫が奇怪な死に様を見せていたそうです。そして熊本大学が水俣病の原因はメチル水銀であることを発表したのが1963年、チッソが「アセトアルデヒド」廃水回収工事を完了したのが1966年、同物質の製造設備を廃止したのが1968年、そして政府がやっと水俣病はチッソの工場の廃液が原因となった公害病であると認定したのが同年9月です。このような長い年月を浪費することになったチッソの無責任と政府の無為無策ぶりには言葉もありません。(その間、1964年に新潟県でも工場廃液中のメチル水銀による重度の神経症状―――つまり水俣病が発生しています)。
●「奇病」の原因が自社工場の廃液中のメチル水銀であることを悟りながら垂れ流しを続け、排水経路を変更して被害を不知火海全域に拡大させ、責任を追及され始めた後も見苦しい言い逃れを続けたチッソについては言うまでもなく、
●既に多くの患者が発生しているのにもかかわらず、メチル水銀の発生原因となる「カーバイド・アセチレン方式」(当時すでに「エチレン酸化法」への転換期に差し掛かっていたのですが)による「アセトアルデヒド」大増産体制をチッソに許可した通産省、
●原因の解明を避け続け食品衛生法を適用しなかった熊本県、そして通産省に気兼ねして全ての対応が後手後手に回った厚生省などの責任も非常に重大です。
これは一企業の不正による公害病というだけでなく、国家的犯罪とも言えるものでしょう。
その被害者の治療費は全額国家負担になっていると勝手に思い込んでおりましたが・・・恥ずかしながら現状は「保健手帳の医療費支給額は月5回、7500円が上限」だったとは知りませんでした!
さらには・・・
★チッソ水俣工場はなんと大正時代から戦前から廃液垂れ流しによる漁業被害を起していたこと、
@そして1926年に漁業組合に1500円を支払い「此の問題に対して永久に苦情を申出さる事として多年の物議を解決したり」という「証書」を交わしたこと、
Aまた1943年にもチッソが漁業組合から被害漁場の漁業権を買い取ることで垂れ流しを公認させ「将来永久に一切の損害賠償を主張せざる」という念書を交わしていたこと、
Bさらに1951年にも、漁業組合に無利子で融資する代償として、水俣川河口の沖合いの一角の漁場に関して「会社の事業による害毒が生じても一切異議は言わないこと」という覚書を交わしていたこと(これが前述の不知火海全域への汚染拡大に繋がりました)、
つまりチッソは金に物を言わせて漁民を封じ込め、廃液の垂れ流しを恒久化しようとしたこと、
★1946年の「アセトアルデヒド」生産再開の翌年、既に水俣病とそっくりの症状を起し亡くなった被害者がいたこと(これは水俣病として認定されていません)、
★そもそも「チッソ」とは、植民地朝鮮に君臨した「日本窒素肥料株式会社」という国策企業だったこと、
★そしてこの、「並みの企業ならとうに倒産しているこの加害企業を、国や熊本県はこれまで、あの手この手で支え続けてきた」ことなども、全く知りませんでした!
(この投稿は「水俣病事件四十年」(宮澤信雄/著 葦書房)を参考にしました)
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