遅くなったが、7月1日のこと。そもそも今年の花岡現地闘争については7月中には書き終えたいと思っていたのだが・・・。
帰国後の耿諄さんと初めて面会した日本人であるジャーナリストの石飛仁さんは、70年代から花岡事件の調査を行っている。
(以前にもこのブログに書いたが)石飛さんは、耿諄さんら花岡蜂起指導者の裁判記録などを元に蜂起が起こったのは7月1日の夜であると指摘している(この件については不勉強な俺には判断できないが)。そのため石飛さんらの研究グループは毎年7月1日に信正寺で慰霊式を行っている。まずは長年花岡事件を研究し鹿島建設と粘り強い交渉を行っていた石飛さんの活動歴を知っておきたい。
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2015年12月20日
2015年11月27日
2015年6月、2年ぶりに花岡に行ってきた(1)
もう半年前のことだが花岡を訪れたことを書く。2015年6月30日に秋田県大館市で行われた殉難者慰霊式、フィールドワーク、夜の講演会、そして7月1日のフィールドワークと「慰霊供養の集い」に参加した。もう4度目なので、まずは花岡現地闘争の基礎知識を記しておきたい・・・
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2013年07月01日
2012年07月01日
2年ぶりに花岡に行ってきた
そういうわけで6月29日から7月1日まで2年ぶりに秋田県大館市を訪れ、花岡事件慰霊式や集会に参加した。
かつて花岡町(現大館市)で鉱石を採掘していた花岡鉱山では、戦時中軍部の要求に応えるため無計画な採掘が行われ、落盤で22名が犠牲になる事故も発生した。そのため鹿島組(現鹿島建設)が土木改修工事を請負い、戦時中の労働力不足のため中国から強制連行された人々がこの工事に従事させられた。
しかし鹿島は中国人たちを連日長時間酷使するだけで満足な食事も報酬も与えず、「補導員」たちは何かにつけて中国人たちに暴力を振るうため多数の犠牲者が出ていた。中国人たちは座して死を待つより活路を見出すため1945年6月30日の夜に一斉蜂起し、補導員らを殺害し逃亡。しかしあえなく鎮圧・捕縛され、さらに多くが虐殺された。花岡に送られるために連行された中国人986人のうち419人が、生きて故郷に還ることはなかったという。
戦後、乱雑に埋められたままの犠牲者たちの遺骨埋葬そして送還が行われ、花岡事件の調査が行われ、蜂起を指揮した耿諄さんら生存者も再来日し、大館市では毎年慰霊式が行われるようになった。続きを読む
かつて花岡町(現大館市)で鉱石を採掘していた花岡鉱山では、戦時中軍部の要求に応えるため無計画な採掘が行われ、落盤で22名が犠牲になる事故も発生した。そのため鹿島組(現鹿島建設)が土木改修工事を請負い、戦時中の労働力不足のため中国から強制連行された人々がこの工事に従事させられた。
しかし鹿島は中国人たちを連日長時間酷使するだけで満足な食事も報酬も与えず、「補導員」たちは何かにつけて中国人たちに暴力を振るうため多数の犠牲者が出ていた。中国人たちは座して死を待つより活路を見出すため1945年6月30日の夜に一斉蜂起し、補導員らを殺害し逃亡。しかしあえなく鎮圧・捕縛され、さらに多くが虐殺された。花岡に送られるために連行された中国人986人のうち419人が、生きて故郷に還ることはなかったという。
戦後、乱雑に埋められたままの犠牲者たちの遺骨埋葬そして送還が行われ、花岡事件の調査が行われ、蜂起を指揮した耿諄さんら生存者も再来日し、大館市では毎年慰霊式が行われるようになった。続きを読む
2011年06月30日
2010年09月13日
花岡事件と その「和解」(11) 「和解」に群がる人々
2010年07月16日
花岡事件と その「和解」(10) セカンド・レイプ
2010年07月14日
花岡事件と その「和解」(9) 欺瞞の渦
(8)の続き。
野田氏の2008年1月・2月号の月刊「世界」の論考は、花岡訴訟の弁護団や支援者にとって見過ごせないものだったようで、一橋大学名誉教授・田中宏氏が同誌の08年5月号にて、野田氏への反論を寄稿した。「中国人強制連行を考える会」代表でもある彼は、新美隆弁護士(故人)や内田雅敏弁護士と共に花岡訴訟に関わり、和解に導いた人物である。自分たちの長年の活動によって成立した「和解」の価値を守りたかったのだろう。そのタイトルは「花岡和解の事実と経過を贈る」である。野田氏の連載のタイトル「虜囚の記憶を贈る」をパクったものである。このタイトルだけで只ならぬ憎しみを感じるが・・・残念ながら「反論」の域に達していない。
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野田氏の2008年1月・2月号の月刊「世界」の論考は、花岡訴訟の弁護団や支援者にとって見過ごせないものだったようで、一橋大学名誉教授・田中宏氏が同誌の08年5月号にて、野田氏への反論を寄稿した。「中国人強制連行を考える会」代表でもある彼は、新美隆弁護士(故人)や内田雅敏弁護士と共に花岡訴訟に関わり、和解に導いた人物である。自分たちの長年の活動によって成立した「和解」の価値を守りたかったのだろう。そのタイトルは「花岡和解の事実と経過を贈る」である。野田氏の連載のタイトル「虜囚の記憶を贈る」をパクったものである。このタイトルだけで只ならぬ憎しみを感じるが・・・残念ながら「反論」の域に達していない。
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